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20160619クボノ宵


 メレンゲ新曲のことも書いたりするので、いやな人は見ないでほしい。時間がないので、久しぶりに殴り書きしようと思う。

 今ユーチューブでペリドッツを検索したら、『スティーブン・ユニバース』の動画ばかり出てきてなんかいらっとした。まあそれはいいが行ってきた。ペリドッツ、それほど頻繁にライブを観たりCDを買ったりはできていないのだが、はじめて観た時に衝撃を受けたアーティストである。ペリドッツを呼ぶなんて、クボンゲホント最高だ。もう対バンがペリドッツというだけで、Queの隣にあるファーストキッチンのポテトをいくらでもクボンゲに買ってやりたくなるな。餌  今回はギタリスト兼プロデューサーの久保田光太郎氏と二人ペリドッツである。ペリドッツはもともとタカハシコウキのソロプロジェクトだったこともあって、演奏形態が複雑多岐にわたり、タカハシも呼称が把握できていないくらい色々呼び名があるので、正しくは何なのだろう。わかんね。弦ペリだとか全ペリだとかドンペリだとかよくわかんね。たいこあたりが喜々として考えてるに違いない。あ、ちなみにみなさんご存じだろうが、ドラマーはシロップ16グラムの中畑大樹である。シロップファンはペリドッツも聴こうな。

 今日も本当にペリドッツはすばらしかった。清澄かつ強度の高い声とメロディ。鉱石のような美しさ。音程の安定したハイトーンボイスが脳天を突き抜けて天上へ昇りつめてゆく。なんというか、畏怖を感じるような美しさがそこにある。どの曲もすべてよかった。「Nothing is coming」、「急に石が飛んできて/Rhapsody Falls/罪」あたりが今日は妙に心に残った。贅沢だ。MCはやはりゆるいが。持っていないCD買ってライブももっと行こうと思った。みんなもペリドッツ聴けよな! 

 そしてみなさんお待ちかねのフグンゲと皆川神である。フグンゲは「ペリドッツのMCで客が沸いてた」としょっぱなから不満げである。みみっちいな! 今月のクボノ宵、ゲストがペリドッツで鍵盤が皆川神、おまけに新曲もやるとか期待しかできないじゃねーかとわくわくしていたが、冷静になって考えてみるとペリドッツにびびったクボンゲが飛び道具を用意しまくったというだけなのでは。。。と思ったが忘れることにした。梅雨だから一曲目は「二つの雨」。その後「フクロウの恋」「声」「水槽」「絵本」と久しぶりな曲が多かった。先月は珍しく「うつし絵」をやったのだが、練習不足で散々な出来で悲しかった。今回はどれもまあまあなクオリティ。あと鍵盤が神。どうでもいいが、皆川神って見た目は漫画みたいだが、声かっこいいよな。今回は稲垣潤一の「1969の片想い」をカバーしたのだが、フグンゲ先生、やる前に「歌えるかな?」と訊いて「知らねーよ」と即答されていた。最近鍵盤の皆さんがフグンゲ相手に当たりが強いのはいいことだと思う。「声」で歌詞を間違え、「ばれないように歌ってほしかった」と膨らんでいた。クズである。音程は安定しないが、クズっぷりは盤石である。そしてフグっぽい。カバー曲の登場人物はたぶんクボンゲと同年代なんだろうが、クボンゲが歌うとなんか中高生の歌みたいである。謎である。

 そして新曲は「あいのうた」。表記は知らない。「最近お前らもオレの天才ぶりを疑ってるんじゃないかと思うから、ここらで見返しとく」みたいなことを言い出す。「ちょっと前に作った曲なんだけど。。。ボクには子どもはいないんだけど、最近まわりで結構子どもが生まれたりしてて、、、子どもがいるってどんな感じなのかなって思って作り始めて。。でも「この歌はこのことを言ってる」って決めつけるのはボクは好きじゃないから、そこはあいまいにして、、恋愛ともとれるようにして。。。笑 そんな感じで作ったまま置いてた曲です」と言ってはじめる。サビは「奇跡じゃなくて偶然でも たとえキミが悪い人だったとしても きっとキミが好きさ」みたいな感じだったと思う。クボンゲはクズだし薄情そうなんだけど、でもこういうじつに愛情ぶかい詞を書くんだなあ。まあ書き手とテクストはイコールではないから当たり前なのだが、ふとにじむ情の深さが好きだ。「オレはどうとでも取れるのが好き」と言っていたが、個人的に子どもへの歌という設定が一番ぐっとくるので、親子の歌だと思うことにする。しかし子持ちファンの心わしづかみだな! しっとりしたいい曲だった。

その後もフグンゲは膨らみながら暴言を吐きまくり、Tシャツのタグが後から届いたのでアマゾンで4800円のミシンを買って自分で縫ったという驚愕のエピソードを明かしたりしていた。あいつにそんなめんどくさいことする根気があったのかよ。。。でもその暇あったら練習しろYO! あとクボンゲというあだ名について、不満そうに「最初志村さんからそう呼ばれて、嫌だったんです、なんか馬鹿にされてるみたいで。けど、なんか最近(※たぶん最近ではない)お客さんからも呼ばれるようになって。。。タグもそれをもじってつけてみました。。。もっと自分を肯定していこうと思って。。。」と語っていた。嫌いだったあだ名もあいつがくれたものだから、気づいたら知らないうちに宝物に変わっていたのかもしれない。


  1. 2016/06/20(月) 03:15:14|
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20160124


 今年から博文館の当用日記を使い始めた。日記は三日坊主派である。まあ五日続いたためしもないのだが、いまのところ奇跡的に続いている。これが非常によくできた日記帳なのだ。使い勝手のいいフォーマットというだけではダメだ、大事なのは情報量だ。六曜、旧暦、その日付に過去起こった出来事、短歌なんかが一頁に書き込まれているので、それが見たくてつい日記を手に取るし手に取れば書く。という訳で小生は1月24日がちょうど旧暦の12月15日になるということを知って少し興奮している。

 旧暦というのは太陰暦、つまり月の暦なので毎月15日は必ず満月になる。月の信仰は古い。月はひとつきの間に、死んでよみがえるからである。今でもあちこちの神社の神事だったりは依然としてどこかの15日にやることが多いのではないかと思う。たとえば成人の日も少し前までは1月15日だった。12月15日は一年最後の満月だから、この日におこなわれる神事もやはり多い。たとえば宮崎県の銀鏡(しろみ)神楽は猪の生首を神饌として夜通し三十三番からなる神楽を舞う。かねがね観に行きたいと思っているのだが、なにせ遠い。

 さて、月の信仰に話を戻そう。信仰の核となるのはやはり月が生死を繰り返すことだ。月の信仰は太陽信仰にさかのぼると言われている。日本でいえば、縄文時代にそれは濃密にみてとれる。死と再生を繰り返す月神の涙や唾液や鼻水――つまり体液もやはり同じ力を持つと考えられていた。変若水(をちみず)だ。顔面把手付深鉢形土器という縄文土器がある。壺の縁に、そこを覗き込むように顔がついている。その目や鼻や口からこぼれ落ちた体液がたまっていく。月神をかたどった顔のついた土器、その中には変若水の代わりに酒で満たされていたのではないか――。ネリー・ナウマンはそう論じた。

 12月15日。最後の月が満ちる。死にゆく年はやがて古い皮を脱ぎ捨てて生まれ変わるだろう。月神の持てる霊妙なる水がほんの一粒でも誰かの墓標に注げばいい。



  1. 2016/01/24(日) 10:07:56|
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君が強く望みさえすれば


 明けましておめでとうございます。暮れに風邪をひいてまだ治りきらない。日頃の行いが悪いと、こういう時困るな。去年は全然更新できなかったが、今年はいろいろ片付けなきゃならないことを片付けて書きたい。というか一番の問題はPCが壊れたことである。12月24日のために書いた小説も手書きのままだ。まあ自己満足だから載せる意味がどこまであるかと言えばそうなのだが、そのうちどうにかしようと思っている。

 ところでSONGSと紅白を観た。藤原、緊張してたな。でもめちゃめちゃかっこよかった。「ブラウン管の前で評価されたくない」って言ってたのにどうした、みたいなことを言われるが、その言葉の真意はプロモーション戦略の一環としてテレビに出ることはしたくないということだろう。BOCはけっしてプロモーションとして地上波のゴールデンタイムに出ることはしなかった。筋は通している。では今、紅白やMステに出ているのはどういうことかといえば、それはある種のレスポンスなのだ。リスナーの声に応じて、あえて派手で傷つきやすい場所に身を晒しに行っている。かっこいいよな。BOCはいま黄金期にいる。変な迷いがない。いや、最高だね。生きて年を取っていてよかった。新譜もジャケットださいが楽しみだし、幕張も楽しみである。

 というわけで相変わらずクズですが、今年もよろしくお願いいたします。


  1. 2016/01/02(土) 14:24:03|
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爆心地

 6年か。ここしばらく全然違うことばかり考えたりいろいろしたりしていたが、やっぱり戻ってしまう。

 その時その時で無数のプレイリストを作って聴く。フラットな頭で聴くと、こんなポンコツでも新しい気付きがある。動いていない様に見えても、確かに進んでいる。

 意識的に止めたはずでも、いろいろ流れて進んでしまって、今ではもう確かな結果が着実に過去からの道を塞えて未来へ道を伸ばしている。

 それでも6年が経とうと、還ってくる涙のふるさとはいつも同じ風景のままだ。いつまでも汲みあげる言葉が代わり映えしないで似通ってしまう。そんなのはおかしいと思っていたが、違うのかもしれない。爆心地、グラウンド・ゼロ。還ってくるのはいつだって変わることのない澄んだ悲しみとどうしようもない愛着だ。

 これから先も何度だってあなたのことを語り直そう。志村。限定された心のある時空の永遠の中で。




  1. 2015/12/24(木) 01:11:50|
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憐れなるかな、臆病なる造物主よ 孤独なる神よ


 『TRUMP』を何回か観ていて、ストーリー上どうしても引っかかる箇所がいくつかある。しかし今回観ていてなんだか自分なりに答えを見つけられたような気がした。パンフレットを読んでいると、末満の「周囲に迷惑をかけたり気を使わせてばかりいる、臆病で身勝手で、孤独な「神様」」という文が目に留まった。クラウスだ。そこからさらに理解が進んだ気がする。的外れかもしれないが、ちょっと書き出してみようか。

 まずひとつめは、なぜクラウスはウルにかたくなに永遠の命を与えようとせず、ただ見殺しにするのかということである。「君からはいい匂いがしないんだ、懐かしい匂いが」という台詞が象徴するように、クラウスにはもはやアレンの血しか見えていない。だがそれは理由のうちのひとつでしかないだろう。それだけではない。

 クラウスはおそれているのだ。ソフィはアレンの血をひく、クラウスに遺された最後のアレンのよすがではあるけれども、しかしクラウスが手に入れられなかった永遠の友=アレンではない。だがそれを認めてしまえば、クラウスは壊れるしかない。その現実のほころびこそがウルなのだ。ソフィの友はクラウスではない。ウルこそがソフィのたったひとりの友であり、二人が生き永らえればそこにクラウスの入り込む余地はない。もちろん、イニシアチブを掌握すれば繭期の少年たちを意のままにすることなど容易いが、それだけはしてはならない。後に残るものは死を超えた絶望だけになるだろう。

 ウルがいてはソフィはアレンにはなってくれない。臆病で身勝手なクラウスが今度こそアレンを永遠の友とするには、ウルがいてはいけないのだ。そうしてウルは死に、ソフィはその身にアレンの捨てた「永遠」を結晶させることとなったのではないか。

 もうひとつ。クラウスはなぜソフィに永遠の命を与えておきながら決して会おうとはしないのか。それもやはり彼の心のどうしようもない脆さゆえではないか。アレンに永遠の命を与えようとしたにも関わらず、その答えに動揺し果たせなかった心の弱さ。今度こそアレンの血を引く子を絡めとることは出来たが、その混じりけのない純粋な思い、意志を受け止める心の強さは彼にはない。狂気という殻で崩れかけたおのれの心を抱き集め、自らのしたことから逃げ続けている。終わりなどないのに。この惨めな狂える夜の造物主にとって、永遠の友が今この時も滅びゆく世界に存在しているというだけで十分なのだ。

 憐れなるかな、小さき造物主よ。疎外されし神よ。悲劇は繰り返す。


  1. 2015/11/29(日) 10:42:11|
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