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絶対に忘れたくない


日は会いに行くひとがいる。昨日、この街に引っ越してきた子だ。友達になろうとおもう。僕は誰かと仲良くなるのがとくいなんだ! 一体どんな子なんだろう? 楽しみだった。

 赤い自転車に乗って、その子の家を目指す。引越しの片付けで忙しそうな家を抜けて、雑草がしげって立ち枯れている庭に、その子は居た。


庭の片隅の傾いたベンチに、ぼさぼさ頭の女の子が座ってる。うつむいた顔は長い金いろの髪が邪魔で見えやしない。僕は立ち止まって、声をかけた。

「やあ、はじめまして。君が引っ越してきた子だろ? 僕はアート。調子はどう?」

 彼女は足をブラブラさせながら、口を開いた。

「今日が何の日か、知ってる?」
「えっ?」

 なんだかよく分からなかった。何が言いたいんだろう?

「ちょうど十年前の今日に、デミアンは初めてピアノを弾いたの。三年前の昨日は、わたしがマルパと一緒に山へキノコをとりに行った日。五年前の明日はタシオがみっつめの眼鏡を買った日――」

 女の子は延々と、その日にあった知らない誰かの話をしゃべり続けた。そんなことよか、名前を教えて欲しかった。いったい、何が言いたいのかよく分からなくて、僕はちょっと困ったんだ。

「その人たち、君の大切なひとたちなの?」

 女の子は顔を上げて、青い目で僕をじっと見た。強い目だった。

「そうよ。今はみんな遠くへ行っちゃったけど。でも、絶対忘れたくないの。だから、毎日こうして誰が何をした日なのか、思い出すの」

 その子は、腕のなかの分厚くてボロボロになった日記帳を、ぎゅっと抱きしめた。まるで手放すのを怖れているみたいだった。

「わたしは油断すると、すぐに忘れちゃうから、あんまり寝ないようにしてる。眠るといろいろなことを忘れるわ。そんなの絶対にいや」

 意地っ張りな顔でそう言うその子の目のしたには、どす黒いくまがあった。子どもは寝ないといけないんだって、博士が言ってたよ。この子を、安心して眠れるようにしてあげなきゃいけないな。


「君はそうやって、君をおいて行った人たちの思い出をずっと抱え込んでいくの? 思い出はどんどん、たしかに重くなっていくよ。君はほんとうにそれに耐えられるの?」

 女の子はこぶしをにぎりしめた。

「でももう絶対にいやなの。わたしが忘れたら、みんなもっと遠くへ行っちゃう。そんなの嫌なの! もうこれ以上、遠くへなんか行ってほしくないの!」

 その子は泣き出しそうだった。あるいは、本当に泣いていたかもしれない。彼女はこぶしを握ったまま、うつむいて黙り込んだ。沈黙が流れる。しばらくして、僕は静かな声で話しかけた。


「君、知ってる? 何千年も前に、あるひとりの哲学者が居たんだ。もともとは、ある地方の王族の子でね、でも色々あって彼は家を捨て、家族を捨てて修行に出るんだ。

 厳しい修行の末に悟りを開いた彼は、じぶんの考えを人々に説くようになる。彼のことばは広く受け入れられた。弟子もできた。そのせいもあって、今では彼の教えは宗教として信仰の対象にもなっているよ。

 その彼がある時、こんなことをたずねられたんだ。
『天国や地獄はほんとうにあって、人は死んだらそういう所へ行くのでしょうか?』ってね。彼がどう答えたか、分かるかい?」

 彼女はだまって首を横にふった。

「彼はね、こう答えたんだよ。『私の教えは、生きている者のためにある。死人に用はない』って。ほんとにそうなんだよ。君は今、生きてるんだよ? 君、その人たちのためにちゃんと生きてるかい? 君は君の大切な人たちを忘れちゃいけないよ。でも、こんなのは誰も望んじゃいない。こんなの、いけないんだ。けど大丈夫、君の大切な人たちをおぼえとくの、僕も手伝えるよ。いい方法があるんだ!」

 彼女はわけがわからないという顔で僕を見た。

「木を植えるんだよ! 美しい木をさ。桜とか、金木犀とかね。たとえいつか、その人たちを忘れてしまう時が来ても、季節がめぐって風が記憶を運んできてくれる。いいと思わないかい?」

 答えのかわりに、石が飛んできた。なんとかよけたけれども。

「……わたしの名前、アイダ。あんたが木、もってくるなら植えてやってもいいよ」

 僕はぱっと笑顔になった。

「やった! じゃあ、明日植えよう! ほかの友だちも紹介するよ。それじゃあちょっと、失礼するね! 今から準備しなくちゃ! また明日!」

 僕は手をふって走り出した。これからやることがいっぱいあるからね。







end

  1. 2010/06/13(日) 21:06:45|
  2. etude
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