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Trillo del Diavolo



 らかな微睡(まどろ)みの中で、僕は美しいヴァイオリンの顫音(せんおん)を聴いていた。美しく揺らぐ音に満たされた空気の中で、僕はゆっくりと目を開く。

 窓辺で少し太った三日月が差し伸べる、白っぽい光を浴びながらそれを奏でていたのは、黒い三つ揃いを着た美しい悪魔だった。痩せたからだ躯を優雅に動かして、一心に飴色のヴァイオリンを弾いている。

 僕はベッドの中で声を上げることも出来ずに、ただ悪魔のヴァイオリン・ソナタを聴いていた。それは世にも美しかったけれど、同時に身を切るような悲しみをも兼ね備えていた。伸びやかでありながら、何かに強く焦がれるようでもある。なんとも不思議な曲だった。

 三つのトリルを含んだソナタを弾き終えると、悪魔は閉じていた目をゆっくりと開いた。深い緑色の瞳が間もなく身じろぎひとつしない僕を捉えた。


「ああ、いつかも私はこのように、人間の夢の中でヴァイオリンを弾いていたことがありました」


 低いのにか細い、掠れたような声で、悪魔は囁くように言った。


「けれど、このような夜はこうでもしていないと、とても耐え難いのです。人の子よ、君を起こしてしまったのは申し訳ないけれど、しかし私はこうするより他ないのです」


 そう言うと、悪魔は美しい瞳を伏せた。僕は思わずベッドから身を乗り出して訊ねた。


「どうして、こんな夜が耐え難いんだい? なかなか、悪くない夜だよ」


 悪魔は僕を見て悲しげな微笑を浮かべると、顔を上げて窓の外の月を見やった。


「私は月が憎いのです」


 悪魔の言葉に、つられて僕も月を見る。今宵の月はまだ満ちる途中だった。しかし、投げかける光は、心なしか強いように思えた。


「なぜ? 月はこんなに美しいのに」


 悪魔は弱々しい顔で、自嘲気味に答えた。


「それは私の生まれつきのせいなのです。君は知っていますか? 人間たちが知らず知らずのうちに、いつも暖かい光を受けていることを。

 人に見ることが出来なくとも、私には見えるのです。小さなライトが、人の上に暖かな明るい光を投げかけているのを。

 そのライトは、小さくて安っぽいくせに、なんとも言えないような暖かで朗らかな光を、絶やすことなく降り注ぎ続けるのです。


ああ、でも私にはそれがないのです!」


 悪魔は泣き出しそうな顔になって、ちょっと口をつぐんだ。


「獣だって、草木だって、暖かい日の光を浴びることが許されているのに! 私にはそれすら許されていないのです。私には太陽もあの小さなライトもなく、あるのは、この冷たい月の光だけ。ああ、なんと心の凍える光だろう!」


 悪魔はそう言ってとうとう涙を流した。堪らなかった。


「私は欲しい。欲しいのです。人間の持つあの暖かな光が! 

でも私は永遠にそれを手に入れることが出来ないのです。私が触れると、あの小さな脆いライトはどうしても壊れてしまうのです。

それでも私は、これまで、手に入れることが出来ないと分かっていながら、数知れぬライトを壊してきました。

ただ、仲間が欲しかったのです。暗闇で、その寒さに身を寄せ合う仲間が!」


 悪魔は持っていたヴァイオリンと弓とを床に落として、両手で顔を覆った。


「ああ、私は取り返しのつかないことをしてしまいました。人々が私を、人間を堕落させるものとして、忌み嫌い、怖れるのも当たり前なのです」


 悪魔は僕に取りすがって懇願した。鮮やかな緑色の瞳が、必死に僕を見ている。


「お願いです。どうか私を赦してください。そしてどうか憐れんでください。私の罪深い生涯はまだ終わりが見えず、一人で過ごす暗闇はまだ明けないのです」


 胸が張り裂けそうになって、僕は泣き出しながら悪魔を抱き留めた。寒さに冷たく震えていて、驚くほど軽い躯だった。


「もちろんだとも。僕はいのち生命が続く限り、君のことを思って胸を痛めるよ。月の光とともに!」



 不思議なことが起こった。その刹那、僕にも、僕の頭上にある小さなライトが、僕の腕の中の悪魔にも暖かな光を差したのが分かったのだ。


「ああ……」


 彼は信じられないというような顔をした。悪魔の白い肌をライトが優しく照らしている。悪魔は震えていた。けれどそれはもう、寒さのせいなんかじゃない。


「ああ……暖かい……なんと暖かい……」


 悪魔の伏せた目から、また涙があふれた。


「ありがとう。ありがとう……」


 そう言って悪魔はゆっくりと僕から躯を離した。


「もうじき夜が明けます。私はもう立ち去らなくては」

「またさっきの綺麗なトリルを弾きに来てくれるかい?」


 細い、形の良い指でヴァイオリンと弓を拾い上げながら、悪魔は恥ずかしそうに微笑んだ。


「今度来る時までにはもっと良い曲が作れそうです」

「あの曲だって十分良い曲だよ」


 悪魔は少しだけ、懐かしむような顔をした。


「前に出会ったヴァイオリン弾きの男も、同じことを言ってくれました。こんなに惨めな曲なのに」


 独り言のようにそう言うと、悪魔はそっと僕に背を向けた。


「それではまた今度」

「また今度」



 そうして悪魔は静かに暗がりの中に消えた。


 ぼんやりとした頭を振る。目を擦りながらベッドを出て、カーテンを開けると、世界はもう朝の中だった。










                                                  end





  1. 2010/05/02(日) 22:31:54|
  2. etude
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