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七色はいらない


 ミュージシャンの名前について考えていて、こういうことじゃないかと思ったので書いてみた。
いい感じの名前がつけられたので満足である。
ポイントはドラマーがかっこいいところである。





 アイラはその言葉を聴いて、思わず後ずさった。手のひらが汗ばむ。追い詰められたような目で演奏仲間(メンバー)を見る。

「演奏旅行(ツアー)を組んだ」

 年上のドラマーは有無を言わせない表情と口調で、もう一度同じ言葉を繰り返す。アイラは声を震わせた。

「なんで、勝手に!」
「話し合いなら俺とこいつで十分した」

 グレッグは隣で腕を組んでいるグレアムを親指で指した。

「お前の甘ったれた意見を聴く必要はない。ここぞという時に逃げ出し続けたのがお前だからな。ただのクズ野郎ならそのままでいい。俺も興味はない。ほっとくさ。だがお前には才能がある。もっとお前の歌をたくさんの人に聴いてもらおう。お前の歌にはそれだけの価値と強度がある。大手(メジャー)レーベルと契約して、レコードが出る今が正念場だ。頑張ろう」

 グレッグの言葉は最後には優しかった。いつもそうだった。だがアイラは瞳に涙を張って頭をかきむしった。

「ライブもツアーも嫌だ! どこにも行きたくなんかない!」

 アイラはギターケースをメンバーに投げつけた。

「おい! 待て!」

 予想外の反応にできた隙を突き、メンバーの制止を振り切ってスタジオの外に飛び出す。だが行くあても特になかった。ここはアッシュビル、無数の人がすれ違う大都会だった。あいつらに見つからないうちに人混みにまぎれよう。

 胸の星型のバッジがやけに安っぽく光るのが気になって、むしり取ってポケットにしまった。音楽家(カウボーイ)として認められると与えられるバッジだった。この古くて新しい大陸では、西方の大陸からもたらされた科学技術と、この大陸に気の遠くなるような昔から根付いてきた信仰の体系が奇妙に共存していた。そんななか、音楽によって世界に作用する力を持つ者たちが現れたのである。その始まりのひとりが牛飼い(カウボーイ)の中から現れたので、彼らをカウボーイと呼ぶ。祭司(シャーマン)にしては俗っぽいが、舞台(ステージ)の上に立つ彼らはやはり異様な存在だった。彼らは最低限の生活を保障される代わりに、街々のホールで演奏することが義務付けられている。それ以上は各人の力量だ。稼ぎたければ稼げばいい。

 まだ真新しいバッジはポケットに入れていてもなんだかチクチクと肌を刺す。イライラして煙草に火をつける。肺を痛めつけても、得られるのはいまいちの気休めだけだった。灰を無意味に散らす。たった一人で始めた遊びが、知らないうちにどんどんふくらんでいって、いつの間にかこっちに襲いかかってきている。どうしてこうなったんだろう。こんなはずじゃなかった。歌うことは色んなものから逃げ出す手段だったはずなのに、今では歌うことがオレを閉じ込めようとするんだ。怖かった。小さな自分の部屋で空想を積み上げていくのは最高に楽しかった。でもライブは違う。なんだか裸のまま、ひとりで放り出されるような感じだ。丸腰の心は、外気だけで簡単に傷付く。そんなこと、演奏仲間(メンバー)たちはきっと分かってくれない。ステージに上がると、ひどく緊張してしまう。つらいんだ、とても! なんでそんなに買いかぶられているのか分からない。狭い部屋に閉じこもって、働きも勉強もせずに独りで機械をいじくりまわして作った音楽。それを聴いて自分を拾い上げてくれたのがグレッグだった。そのことは嬉しかった。でもどうしてか分からないから、心から信用できない。中途半端だった。好きでカウボーイになった訳じゃないから、戦うための覚悟も何もない。今すぐ逃げ出したかった。

 いつも行かない所をこそこそと歩く。猫背をさらに丸めて歩く。育ちすぎた手足をいつも持てあましていた。今頃メンバーたちはオレを捜しているだろう。家は当然張り込まれているだろうな。数少ない友人の所もきっとダメだ。こんなんじゃデミアンの所にも遊びに行けやしない。マックス・デミアンはアイラの親友だった。同じように音楽家(カウボーイ)で、アイラの方が少し年上だが、妙に気が合ってずっとつるんでいる。カウボーイとして認められたのも、ほぼ同時だった。

 急に心細くなってきた。また視界がにじむ。ぼさぼさ頭をかきむしる。行く所がない。帰る場所もない。正体がなくなるまで酒が飲めたらどんなにいいだろう。だが持病で飲めなかった。女を買う勇気もない。ふらふらと狭い道を通りから通りへと渡り歩いて、行ったり来たりを繰り返した。視線はひしめく店々の上をさまようが、その中からどれかを選び出す気力も思考力も最早なかった。意識がどんどん滑っていく。

 気付けばもう日が暮れかかっている。バケツの底が抜けるように、何か大事なものがどんどんこぼれ落ちていくような気持ちがした。突然怖くなって、通りがかった安宿に飛び込む。宿帳にウソの名前を書いて、ろくに口もきかずに差し出された鍵をひっつかんで用意された部屋に駆け込んだ。すぐに鍵を掛け、ベッドにもぐり込む。ベッドは少し湿っぽかった。何かに急かされ、追われているような感覚は少し薄らいだが、相変わらず猛烈に虚しかった。

 そうだ、デミアンに電話しよう。ベッドから這い出し、備え付けの電話の受話器を手に取り、ダイヤルをまわす。わずかな期待感とともに耳を澄ます。数回のコール音の後、眠そうな声がする。別に眠い訳ではない。生まれつきの声質だ。

『もしもし。どちら?』

 久しぶりに聴く声にどこかほっとする。

「オレだ。アイラ」
『ああ、アイラ。何か用?』

 思わずちょっと口ごもる。話したいことは考えていなかった。

「いや、特に用がある訳じゃないけど……今、何してた?」
『次の次のレコードの候補曲のミーティング。その前は取材(インタヴュー)を受けていた。そっちは?』

 急に振られて、目と言葉が泳ぐ。

「え、あ、えーと……こっちはレコーディングが終わって諸々のミーティングしたりしてるよ……お前んトコはすごいな、今度出すレコードのトラックダウンが終わったばっかなのに。もう次の話し合い進めてんのか。少しは休めよ……」
『何言ってるんですか。今が正念場だ、今やっておかないと。あ、そうだアイラ、あのギターを貸してほしいんだけど。ほら、あのマスタービルトの六七年製テレキャス。あの音がほしいんです。今度メンバーとあわせる曲で使いたいんで、明後日取りに行きますよ』
「え、まだ貸すなんて言ってないぞ」

 デミアンはしょっちゅうギターや機材を借りていくが、ちゃんと使ったことはあまりない。どうせ今度もそうに違いない。

『アイラはグズだからね。じゃあ明後日の十一時に。よろしく』

 デミアンは勝手に電話を切った。普段は年上のアイラを立てるようなところもあるが、結局とどのつまり頼られているのか使われているのかよく分からない。そういえば、デミアンとも最近あまり会っていなかった。お互いこれから環境が変わるというところで、忙しかったのだ。

 明後日か……アイラは再びベッドにもぐり込んだ。こうして何もしないまま明後日になって、状況が変わっていたりしないだろうか。ないよな。こんな風に同じ町の中で鬼ごっこをしたって、出来の悪いその場しのぎにしかならない。そんなことは分かっている。でも今はこれでいい。これで。布団の中で頭をかきむしる。だんだん頭がおかしくなってきて、ぼくを追いかけてくるものがかたちを取りはじめる。黒くて信じられないほど巨大だ。あの太い腕につかまれたら体中の骨が砕けるだろう。体重は想像できないほど重い。追いつかれたら踏みつぶされて殺されるのかもしれない。いや、牙と爪がものすごく鋭いから、それに貫かれて死ぬのかもしれない。何より怖いのは、そいつが他のやつには目もくれず、ぼくだけを狙ってるということだった。図体はデカいくせに、音もなくどんどん距離を縮めてくる。まずい! 暗い路地を走り抜ける。ここは暗くてなんか寒いな。早く帰りたい。モンスターの姿は闇に溶け込んでも、赤い眼がギラギラ光っているので見失うことはなかった。直進すると見せかけて、不意に曲がり角を曲がる。すぐに目の前の塀をよじのぼって怪物(モンスター)を撒く。きっとあっという間に追いつかれるだろうけど、撒かないよりはマシだ。息を弾ませながら、もうひとつ角を曲がる。

 唐突に人と出くわして足が止まった。狭い路地裏に、月明かりが差している。月の光が顔に刻まれた深い皺に影を落としていた。その横顔はまるで彫像のようだった。月光を浴びて、年老いたシャーマンが立っていた。彼の名はカメレオン、自由に姿を変えることのできる七色の衣を持っていたという伝説のシャーマンだ。こんなところで会えるなんて。ぼくは何かを考えるよりも先にカメレオンに駆け寄った。

「カメレオン! お願いです、怪物に追われてるんだ! あなたの魔法をどうかぼくにも分けてください!」

 シャーマンは虚空から視線をはずしてぼくを見た。背はぼくよりずっと低かったが、なんだかずっと大きい。琥珀色の瞳がぼくを捉える。

「満ちたる月の子よ、」

 偉大なシャーマンの深く低い声は、心の中まで入り込んで響いた。

「そなたに望み通りの力を授けよう」

 シャーマンは腰の小さな巾着から、色鮮やかなマントをパッと広げた。それは空を舞ったかと思うと、僕の体に巻きついた。

「行け。そなたの望む姿を取るがよい」

 ぼくは走り出した。マントは目まぐるしく色を変えていく。不意に開けたところへ出た。光があふれる。昼間の広場だった。人でごった返している。その中に入り込みながら、おれはフィッシュアンドチップスを売っているおっさんに姿を変えた。背が縮んで、お腹がドンと突き出る。髪の色も瞳の色も変わった。窓ガラスに映ったぼくじゃないおれがこちらを見ている。カメレオンの力は本物だ! へらへらしていると、ガラス越しに背後からあの化け物が迫って来るのが見えた。毛が逆立つ。でも今のおれはぼくじゃない。怪物はこちらへ近づいて来るが、おれを見てはいなかった。すぐ横を通り過ぎて姿を消す。また戻って来るかもしれない。通りの向こうをじっと見ていたが、しばらくして止めていた息を吐き出した。やった・・・もう何も怖くはない! 

 おれはまた歩き出した。今のおれは誰でもある。もうアイラではないから追われなくていい。この都会にいくらでもいる誰かになって、この街に紛れ込むのだ。ビジネスマン、洗濯婦、職人、御者、農夫・・・おれは誰にだってなれる。息をするように姿を変えていく。怪物の姿は時々見かけた。いつも少し遠くにいて、うろうろしながらどこかへ行った。その姿は見かけるたびに少しずつ小さくなっていって、しまいにはとうとう見かけなくなった。

 でもそれもどうでもよくなっていた。おれは缶詰工場で部品のひとつみたいに働いたり、大きな病院で運び込まれてくる急病人や怪我人を片っ端から診たりしていた。追われるのはぼくであって、おれではない。でもおれって誰だっけ? 今、白衣を着て素っ気ない椅子に座っている中年男はおれの本当の姿ではないはずだ・・・でも思い出せない! そのことに気がつくと、体の震えが止まらなくなった。分からない。いつの間にか自分を薄めすぎて、もうすくい上げられなくなってしまった! 

 おれはふらふらと立ち上がった。患者や看護婦を放り出して外に出る。よろめきながら街をさまよう。

「カメレオン! 元の姿を忘れてしまったんだ! こんなはずじゃなかったのに! ぼくを助けてください! お願いです!」

 おれは泣き叫びながら次々と姿を変えた。でもどれもぼくじゃない。どれだけ呼んでも、どれだけ足を棒にして探しても、カメレオンは現れてくれない。胸がつぶれそうだった。空が泣きだして、立ち尽くす。もう二度と元には戻れない。その事実が頭をガンガンと揺さぶった。絶望が胸の底を溶かして、意識が闇に沈み込んでいった・・・・・・



 アイラは飛び起きた。心臓が壊れたように鳴っている。いい加減に閉められたカーテンの隙間から、朝日が顔に差し込んでいた。ベッドから飛び出して、洗面台の上に掛かっている汚れた鏡を覗き込む。鳶色の髪に蒼い瞳。いつも通りの自分の顔だった。目と鼻の頭が赤くなっている。頬は濡れていた。すべて夢だったのだ。急いで服の袖で顔を拭いてハットを掴み、部屋を飛び出して宿代を払い、外に出る。雑踏を歩きながら、鼓動を落ち着かせる。そして自分の狭いフラットへ向かう。


 翌日、デミアンはアイラのフラットの呼び鈴(ドアベル)を鳴らした。デミアンとアイラの住む場所は近かった。すぐにドアが開いて、アイラが顔を出す。

「やあチェット、どうも。ギターは?」

 アイラは答えず、ハードケースに入ったギターを二本、デミアンに強引に押し付ける。そのままフラットを出て先に歩き出す。

「アイラ、アコギは頼んでないですよ」

 デミアンは二本のギターを担いで慌てて追いかけてくる。

「これからリバーサイド・スタジオでうちのバンドのミーティングをやるんだ。オレは他に荷物があるし、運んでくれよ」

 それを聴いたデミアンはむかっとした顔で抗議する。

「俺だってありますよ、プリプロが! 嫌です!」

 アイラは足を止めて振り返った。

「ギター貸してやらないぞ」

 デミアンは結局三〇秒後にはぶつぶつ文句を言いながらギターを持ち直した。アイラは長い脚でどんどん歩いていく。

「歩くのが速い。こっちはギターを二本担いでるんですよ!」

 デミアンは大きな目をくろぐろと淀ませた。

「スタジオに行く前に飯を食いに行こう」
「行きましょう。アイラのおごりで」
「いいよ。おごってやる」

 デミアンは小走りで追いついてアイラの顔をじっとのぞき込んだ。

「おかしいな……なんかいいことでもありました?」

 アイラはフラットとスタジオのちょうど中間くらいの距離にある食堂に入った。ここは安くてそれなりに味もいい。

「いいことなんかないさ。相変わらず金もないし」

 適当なテーブルについて、ウェイトレスにそれぞれ料理を注文する。

「オレはサーモンのムニエルとフレンチフライ。あとコーヒー」
「羊飼いのパイ(シェパーズ・パイ)とコーヒーで」

 アイラは煙草を取り出して火を点けた。煙を吐く。

「でもなんか少しだけ腹を括れそうだよ。夢を見たんだ」

 デミアンは眉をちょっと上げた。

「へえ、どんな夢?」

 アイラは昨日見た夢を話した。途中で料理が来たので、食べながら話す。デミアンは大きな目を料理とアイラの間で行ったり来たりさせながら、眠そうな声で相づちを打った。

「なるほど。宿代の元は取れたんですね」

 聴き終わってデミアンはニヤニヤした。

「昨日はトラックダウンに立ち会って、今日は宣伝(プロモーション)や演奏旅行(ツアー)のミーティング。苦手なことばっかなんだ……プロモーションなんか正直どうでもいいし、ライブなんかやりたくない……なんでオレなんかのひとりよがりな歌を聴いてくれるやつがいるのかもよく分からない……音楽をやるということは戦いだ。終わりのない孤独な戦いだ。勝っても負けても死ぬかもしれない。怖いことばっかだ。でもオレはたぶんこれくらいしかできることがない。色んなものから逃げ出して最後に残ったのがこれだった。戻れる場所も逃げ道もたぶんもうないから」

 アイラは引きつるように長い息を吐いた。

「ありったけの命を雑巾みたいに絞りつくして、オレは一体何を歌ってるんだろう。分からない。続けていけば分かるんだろうか……いつまで続けられるかは分からないけど、オレは少しだけ戦ってみようと思う」

 アイラはコーヒーを一口飲んだ。

「戦う気にはなったから、自分を守る鎧がほしいんだ。守らなきゃいけないものなんか他にないし・・・仲間(メンバー)なんか、守るっていうより守られてるしな・・・」

 アイラは夢を思い返していた。土砂降りの中、意識を失いかけて石畳に膝をついたアイラの目の前に、透明の幕を一枚落としたように唐突にカメレオンが姿を現す。すがるように見上げる。

「満ちたる月の子よ」

 声が脳天に降り注いだ。

「七色の力は返してもらおう。そなたには扱えぬ。だがひと色だけは残しておこう。その身を守るために。最も淡い色を」

 雨に色が溶け出していく。シャーマンの姿も雨に溶けて次第に見えなくなっていった――

「カメレオンがくれた最後の色を、オレは名前にして背負おうと思う」

 デミアンはコーヒーカップを置いて先を促した。

「つまり?」

 アイラは手近にあったナプキンを引き寄せると、ポケットの万年筆を抜いて名前を二つ書いた。


ISLAY CHESTERTON
CHESTER ISLAY


「オレの名前はアイラ・チェスタトンだけど、音楽家(カウボーイ)としてオレはチェスター・アイズレーと名乗ろうと思う。これは戦闘服でもあり、覚悟でもある・・・全然違うオレではないけど、ステージに立つオレは普段のクズ野郎より少しマシなオレなんだ。うまく言えないけど・・・言ってること、分かるか?」
「いや、わかるよ。なるほどね・・・いいんじゃないかな。ジョン・ディクスン・カー(推理小説家。カーター・ディクスンという筆名を持つ。)みたいで。チェスタトン(推理小説家。ブラウン神父シリーズで有名。)だけにね。まあ君はフェル博士(カーの創作した巨漢の名探偵。モデルはチェスタトン。)にしては恰幅が良くないけど。『三つの棺』、読んだ?」

 デミアンはコーヒーにミルクを足してかき混ぜた。

「故郷(くに)の兄貴の方がデカくて立派だよ。うちは代々デカい家系なんだ、別に好きでデカい訳じゃない……」

 デミアンはニヤニヤしながらコーヒーを一口飲んだ。

「ステージの上ではデカい方が映えるさ――うん、いい名前だ。君の名前、よく女性と間違われるしね・・・あだ名もチェットだしちょうどいいよ。ところでファースト・ネームの由来は? 変わった綴りだ」

 デミアンはナプキンの上に大きく滲んだ文字をトントンと指で叩いた。

「ああ・・・先祖の故郷の島の名前だよ・・・一回も行ったことのない遠い場所だけど」

 アイラは万年筆を指でもてあそびながら答えた。

「いいんだよ。どんなにか細くても、君へと至る物語がへその緒のように繋がっているということは幸福なことだ。すべてを捨ててここへ来た人もたくさんいる」

 デミアンはコーヒーを飲み干して立ち上がった。

「ごちそうさま。さて、そろそろ行きますか。早くこいつをリバーサイドまで持って行かないと、俺が遅刻してしまう」

 チェスターもペンをポケットにしまって席を立つ。

「プリプロか・・・働くな。まあオレは今朝二曲できたけど」

 その言葉にデミアンが反応する。負けたと思ったらしい。余裕めいた動きでテーブルの上のハットを掴んで、頭に載せる。

「ミーティングが終わったら、あいつらにできたばっかの曲を聴かせるんだ……お前、プリプロはどこでやってる? エラか?」
「そう、スタジオ・エラ」
「・・・聴きに来いよ。電話するから。エラならリバーサイドは近いだろ」

 マックス・デミアンは大きな目で笑った。

「お願いします。盗みに行くんで」

 チェスターもふっと鼻で笑った。

「やれるもんならやってみろ。まあ無理だろうけどな。あまりに高度すぎて」
「言いましたね。俺は言ったことはやる男ですよ。後悔しても知りませんから」
「すぐ機材のことで泣きついてくるくせに、威勢だけはいいな」

 デミアンは反論できないらしく、何かぶつぶつ不満そうに独り言を言う。チェスターはウェイトレスに支払いをして、デミアンはギターを担いだ。ドアを押して、店の外に出る。


 時は流れた。闇の降りている舞台袖で、バンドは待ち構えていた。フロアにひしめく観客(オーディエンス)の気配が、ホールを満たすSEに乗って伝わってくる。カウボーイたちは軽く円陣を組み、互いに鼓舞する言葉を掛け合い、すぐに手を離す。ひときわ背の高いひとりのカウボーイはずっと目を閉じて頭を垂れている。おもむろにパッと顔を上げた。蒼い瞳が闇の中で浮かび上がる。

「さあ、行こうか」

 その声には不思議な響きが宿っていた。声の力に促されながら、メンバーはステージに上がって行く。チェスター・アイズレーはハットをかぶり直し、最後にステージに姿を現す。陽炎のようなマントが微かにゆらめく。楽器を取り、手を挙げて合図をするとSEが止まった。ドラムのカウント。靄と照明を切り裂いて、音が飛ぶ。ライブが始まった。






  1. 2015/03/26(木) 01:20:52|
  2. 短編
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