inkblot

20150124


 なんか調子が悪くて全然書けなかった。

 24日は室生犀星の「童子」「後の日の童子」というふたつの短編のことを考えていた。犀星は最初に授かった男の子を生まれて幾ばくもしないうちになくしている。室生犀星、顔は怖いがああ見えて実はものすごく情の深い男である。体の弱い赤ん坊が熱を出したりするたびに血相を変えて病院に飛んでいく。

 けれども両親の腕のあいだを抜け落ちるようにして、子どもは死んでしまう。それまでとはうってかわってひっそりと静まり返った暮らしのなかで、父と母は我が子を幻視する。しゃべることもできなかった赤子がどこか大人びた童子の姿になっている。四、五歳ほどの、笛と太鼓をたずさえて、暗い昏い道をちいさな足で、かなしい顔をしてあてどなく歩き続ける童子である。その果てのない道ゆきの途中、ほんのひと時だけ、童子は父母の前で遊ぶ。その光景の痛々しい幸福さ。すべてが無理なのは誰もが分かっている。目が覚めたら、おそろしい虚無が待ち構えている。その未来を先送りにして、永遠に引きのばされた時間だ。

 死児に引き寄せられ、死児を招ぎ寄せる父母。内田百閒「道連」もそうだが、こういった作家たちの描き出す死者の立ち現れ方というのは、古い古いところから発しているものだ。死者という幻が現実を侵す。夢と現が曖昧に溶け合うところに、死者の声が響く。物語とは依りつくモノ=死者の語りであり、そして物語とは、供犠である。死者へと捧げられた死者の語り。死者の生きた物語を語り直すことが死者への供犠なのである。

 しかし「童子」「後の日の童子」は凄絶である。想像力は地を離れて翔んでゆく。何よりも濃密に幻が日常を生きている。死者にいっときではあれ、今ひとたびの生を与え得る想像力の強固さに皮膚が粟立つ。もう一度それがほしい。


  1. 2015/02/02(月) 22:47:04|
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