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湖の伝説


 去年、諏訪へ旅をした時に耳にした伝説を下敷きにして書いた。細部は全然覚えていないのだが、諏訪湖と信玄公の伝説である。書いているうちによく分からなくなった。




 凍てつく冬に、鳥は死んだ。時は戦(いくさ)の世、山がちな小国の主――軍将(いくさのきみ)は、若く美しい武者だった。その名は緋星将(あかぼしのきみ)という。あまり無骨な風貌でもないが、しっかりした骨格の持ち主で、武芸の道に生真面目に打ち込む一方で、歌や書物を愛した。書の腕はあまり目を引くようなものではなかったが、琵琶と語り物は名うての弾き手からじっくりと手ほどきを受け、目明きの者とは思えぬような素晴らしいものになっていた。元来、姉妹のほかに男兄弟はなく、兄弟同士の食らい合うような争いというのはせずに済んではいたが、それでも乱世の小国の主家といえば生きているだけで敵は多いものである。ゆっくり育つひまもなかったが、文武どちらの道も決して手を抜かなかった。どちらも生きるためには必要だったからだ。武事は肉体を守り、文事は心を守った。

 用心深い父も病からは逃れられず、側近だけに見守られた長患いの後に息絶えると、彼が一国の主となった。心を許した数少ない側近を手足として、彼は押し寄せる軍勢を打ち払い、他国へと躍り出た。またたく間に、生産力もさしてない、山ばかりの小さな小さな国が強国へとのし上がる。彼は休まなかった。慎重に、だが勢いを殺すことなく、地図を塗り替えていく。明らかに生き急いでいた。正室との間に姫君がひとりあるばかりで、世継ぎに恵まれていなかったことも気にしていた。

 ある時、緋星公は苦戦を強いられていた。長期にわたる睨み合いののち、休戦が結ばれて撤兵に取りかかったのだが、その最中、濃く白い霧の立ち籠めるなかで別の敵軍に出くわしてしまったのだ。こちらは既にかなり消耗している。だが相手は余裕があった。まずい。休戦の申し入れは突っぱねられた。両軍は戦いに入ったが、公の郡は粘り強さをみせて辛抱強く退却の道を探った。それはあった。時間はかかったが、最良の時期を見計らってまで耐えしのび、公は自らの軍を撤退させた。

 疲弊した軍勢を率いてゆく自国への道は険しかった。山道を縫うように進んでいった。消耗は思っていたより激しい。公は発病した。誰にも知られてはならない。敵にも味方にも。側近の者たちは影武者を立て、たった三人の重臣だけをお供に、軍勢とは別行動を取らせた。

 公につき従った重臣は、水眼十郎(すいがじゅうろう)、松下兵部(まつしたひょうぶ)、肥月居士(ひげつこじ)の三人である。いずれもみな若い。十郎は公のまたいとこであり、兵部は公の乳母子(めのとご)、肥月はある時ふらっとやって来て、居ついた幻術使いである。三人の家臣たちは主を奉じていくつもの山を越えた。ひどい熱である。主君は熱い体を冷たい汗に濡らして、瘧(おこり)にかかったように震えている。意識は澄み渡ったり混沌としたりした。気の確かな時には今後の動きについて主従四人で話し合った。うなされている時は、北の方や姫君の名をうわ言で呼んだ。不断であれば大事には至らない病だったはずだが、何分長い戦で身も心も憔悴しきっていた。早く国へ帰らねば。空気が重たくなると、兵部が冗談を飛ばした。肥月が十郎にまぼろしを見せてからかう。三人は励まし合いながら、かすかな獣道を急いだ。

 唐突に道が開ける。湖だった。静かな水面(みなも)が滑らかに光を跳ね返していた。水底(みなそこ)はきっとおそろしく深いのだろう、透き通った水は奥へ行くにつれて次第に湖底を隠していく。

「止めてくれ。ここで休もう」

 馬上から芯のつよい声がした。家来たちはすぐさま馬をとめ、主君が愛馬から降りるのを手助けする。殿は湖のほとりに降り立ち、大きな目を細めて湖を眺めた。

「美しい湖だな。かたちが菱形をしているところがいい」

 三人は公の言っていることがいまいちよく分からなかったが、主君が妙なことを言うのには慣れていたので特に気にしなかった。殿の調子はいいらしかった。持ち直したようだ。

「今日はなんだか調子がいい…… 琵琶はあるか」

「殿、こちらに」

 床几(しょうぎ)に腰を下ろし、琵琶を奏し始める。淼(びょう)、淼(びょう)、淼(びょう)。湎(べん)、沔(べん)、湎(べん)。琵琶を弾く公の眼は、晴眼者にもかかわらず何も見えていないように、薄青く透き通って見えるのだった。公が語り出す。その声は低く、どこかもったりしたところが親しみを感じさせる。その響きの中にいつもある一途さが好きだった。都を追われ、西へ流離してゆく権門の物語に、知らず知らずのうちにすっかり入り込んでしまう。戦いに敗れ、駆け逃れた先の大海の水は骨の髄に刺し入るように冷たかった。

 鳴りやんでやっと我に返る。公はにやにやしてこちらを見ていた。ここしばらくのあいだに随分と痩せた。だが眼の輝きは少しも衰えていない。

「顔が暗いぞ、おまえたち。日の射さない道を長く歩きすぎたのだ。今日は少し休もう。おれのことは心配するな。不思議と大分よくなった」

 家来たちは久しぶりに嬉しい気持ちになって、膝をついた。

「おい十郎、笛を持て。肥月は鼓を持っているか。遊ぼうではないか」

 重臣たちも公の言葉に、それぞれいたずらを始めるような顔になって楽器を取り出す。好きなのだ。真面目な者たちだったから、誰一人として刀を捨てて楽器を傍らに穏やかに生きてゆけたら、などという夢想すらする者はなかったが、可能ならそうしたかっただろう。ただでさえ、心配性の老臣たちからそれとなくたしなめられることがあったのだ。だがその日ばかりは、気の済むまで楽器を弾いて遊び、日の沈むころに食事を摂って寝た。

 ほっとできるようなことがあったのは、もうどのくらいぶりか分からないほど久方ぶりのことであった。見張りの者も、気付けば寝入っていた。つい気がゆるんでしまったのだ。

 ふっと目が覚めて、はじめて自分が眠っていたことを知り、十郎は恥じた。そしてすぐに緋星の君の姿を捜す。いない。血の気が引いていく。他の者を蹴り起こして、天幕の外へ飛び出す。肥月の幻術で湖一帯を隠していたから、敵の間者に見つかるおそれは低かったが、それだけで安心できるものではない。嫌な寒気に総毛立つ。はたして、公はいた。ほの明るい夜だった。月が投げかけるしらじらとした光を水が満々と湛えている。公はそこに身を浸していた。家来たちが駆け寄って、うつむけに倒れている主君を抱き起こす。眠っているように穏やかな表情だった。琵琶を抱いている。水は飲んでいない。水に倒れ込む前に、ひとりでに心の臓が動きをとめたようだった。もう、この世の人ではなかった。公の心はこの湖のほとりから、水の向こうへと旅立ってしまっていた。

 三人は気が遠くなって、自分たちもどこか体から離れたようなところから主の名を呼んだ。そこへ知らない間に嗚咽が混じっていく。次第に声も嗄れていく。声が出なくなると、それぞれ笛や鼓を手に取った。足りない音楽が樹々や水に跳ね返って響く。空の端から夜が白んでいく。

 日の光がすべてを乱暴に照らし出す頃に、家来たちはようやく楽器を投げ出した。目は腫れ上がり、どす黒い隈に縁取られた瞳は濁っていた。三人はわずかに言葉を交わし、主君をこの湖に葬ることに決めた。主をどことも知れぬ湖に葬るなど、普通であれば正気の沙汰ではないが、公の魂はすでに湖の底に沈んでいるような気がした。ならばお体もひとつところにお送りせねばなるまい。

 日のあるうちに準備を整え、日没を待って松明(たいまつ)をあかあかと灯した。黒雲が空をべったりと覆い、星ひとつない闇夜となった。ほとりにそっと舟を浮かべ、湖の中心へと漕ぎ出す。小さな小さな舟に自分たちの他に載せているのは、具足をつけ、太刀を佩き、琵琶を胸に抱いた主の亡骸をおさめた石の棺である。この山奥でどのようにしてそんなものを調達したのかも、どうしてそんなに重いものをこんなに軽い舟に載せられるのかもよく分からない。(ただ、この湖から一番近い集落には、鎚や鑿と取り換えたという曰くのある立派な太刀を伝える家が今もある。)

 たいまつの爆ぜる音がやけに大きく響いた。誰も何も言わぬ。たいまつの赤い光が、水面に血のような跡を引いた。舟が湖の真ん中まで来る。水面に吸いついたようにぴたりと止まる。三人の重臣たちは石の棺を静かに湖へ降ろした。棺はゆっくりと昏い水に沈んでいく。棺がすっかり水に沈んでしまうと、水面にへあぶくが浮かび上がった。ぷつぷつと、途切れ途切れに浮かんでは消え、浮かんでは消えするあぶくがまるで沈みゆく主の呼吸するに思われて、十郎が水面にへ身を乗り出した。他がそれを組み伏せる。あぶくは長いこと水底からのぼってきたが、ようやっと絶えた。それを見守って舟は引き返す。三人の身も、冷たい水に浸されて痺れているような気がした。


 五回の冬が過ぎた。見覚えのある細い山道を、湖へ向かってゆく三人の姿があった。

 緋星将亡き後、話し合いを重ね、三人のうち公と血縁の十郎を後継者に立て、十郎は公の遺児である幼い夕星姫(ゆうずつひめ)を正室として主家に入った。水眼十郎は公よりまた少し若く、無邪気なところのある若者だったが、五年が経って公にどこか似て来た。近頃ではまわりの者たちも時折はっとすることがある。三人ともそれぞれによくよく話し合って、それぞれに重たいものを背負い込むことに決めた。表に立つ者と影で支える者とがあるが、どちらも背負うものは同じであった。今も同じ道を歩いている。頭上には太白星が輝いていた。

 日は落ちて夜である。五年前と同じように、小さな舟でそっと湖に漕ぎ出す。あたりはしんと静まりかえっている。五年の間、目まぐるしく色々なことがあった。だが三人の心はいつしか五年前のあの日にかえっていった。風はない。頼りない櫂が水面を掻いて進む。湖の真ん中に来て、やはり舟がぴたりと止まる。

 三人はそれぞれ楽器を取り出した。十郎は五年のうちに琵琶も大分弾けるようになっていたが、今日手にしているのはかつての笛である。笛の鋭い音が先陣を切って、楽がはじまっていく。何かがどうしようもなく欠けている。欠け落ちているものを埋めないまま、彼らはそれを捧げた。何も言わなかった。言いたいこと、伝えたいことはすべて音の中に込めた。それ以外の方法ではやみくもにあふれてしまって伝えられそうにもなかったのだ。楽の音は水に溶け、樹々に沁み込んでゆく。三人はもう余計なことは何も考えてはいなかった。体も心も楽器そのものと化す。三昧境とはこのようなものか。どこにもない琵琶の音を読んでそれぞれの音が編まれる。時々、無音になる。本来は琵琶の独奏になる部分である。今、またほかの楽器が止む。鳴り響く音はない。三人は楽器を構えたまま、静寂(しじま)を駆ける琵琶の音を夢想した。


梵。


 伏せていた目を上げる。琵琶だ。間違いない。今、たしかに水底から響いた。


菩梵。梵露論。梵梵。


 十郎がわっと子どものように泣き出した。今までこらえていたものが解き放たれたかのようだった。十郎が泣くので、兵部と肥月は泣けなかった。代わりにそれらを支えるように伴奏を再開する。十郎も思いきり泣くと、拳で顔を拭って笛をとった。全ての音が揃う。きっとこれが最後だと、誰もが感じていた。思いはあふれすぎて、すべてをそこに込められたのかどうかももう分からなかった。何かを考える余裕はない。真っ白なところで時の感覚もないまま、いつしか最後の琵琶の一音が湖面を打った。少しだけ、泣いた。



 ぼぼんぼんと琵琶の音があたりに反響していい音を立てる。弾いているのは、パーカーにジーンズの若者である。

「これがこの湖の伝説よ。今語ったような訳で、この湖の底には英雄が沈んでいるのだ。ところでおれはやっぱり楽器では琵琶が一等好きだなァ。カッコいいよなァ」

 楽しそうに撥をはじく。正体不明である。

「あんたは誰なんだ」

 若者は大きな目を上げて、声の主を見た。笑っている。

「本当はもう、おれがこうしている意味をしっているんだろう? 何度も何度も繰り返し繰り返し出てきては、おれはおのれを語らずにはおれないのだ」

「ああ。そうか。そうなのか」

 声は長く息を吐いた。

「なあ、友よ。気に病まないでくれ。そしておれを忘れないでくれ。おれがいいたいのは結局のところ、それだけなのだ。おれはおまえなのだからな」




  1. 2014/12/24(水) 13:02:09|
  2. 短編
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