inkblot

CP対称性の破れ

 
 
 ――父を失った原始群の子供たちは、すべて、敵対する兄弟たちである。彼らは、もはやほんの少しの同一性もないほどに互いに酷似している。彼らを他から区別することは不可能である。もはやそこには、みな同じ名前の同じ服装をした一群の人々しかいないのである。(ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』)


-------------------------------------------------



 これはたわごとなので、真に受けないでほしい。

 今年割とずっと考えていた。「ドッペルゲンガーに出会うと死ぬ」というフォークロアがあるが、それは文学でもしばしば登場するルールである。アルターエゴはしばしば殺され、消され、死ぬ。反物質は物質に出会うと消滅する。どうやら世界の約束事っていうのはそういうことらしい。同じやつは同時に居てはいけないと、そう世界は言いたいらしいな。

 ふっと頭をよぎるのは志村とクボである。あの冬の寒い日に一人は息絶え、一人は生き残った。嫌な思い付きだ。すぐに打ち消すべき思い付きだ。だが、「生き残った」ことに善い意味を見出せないかと思ってしまった。生き残ったということはもう当分死ねないということだ。もう一人より色々なものをうまくすり抜けてここまで生き残って来た。今更嫌だとは言えない。頼んでないのにと言ったってもう遅い。死ぬまでやるべきことをやるしかない。もう一人から受け取った分まで。出来るから生き残ったんだろう。

 だがこれはやはりすぐに忘れ去るべき思い付きだ。まだちゃんと調べていないから、落ち所もない。ただ宙づりになった疑問が時折頭蓋にこだまする。

もし彼らがドッペルゲンガーだったとしたら? 
もし彼らがドッペルゲンガーだったとしたら。




  1. 2013/11/24(日) 22:30:55|
  2. 音楽
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<『シンメトリア』ディスクレビュー | ホーム | 20131121>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://kirschrot.blog40.fc2.com/tb.php/582-eff51320
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)