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天鼓


 後漢の時代のことであった。或る処に天鼓と云う少年がいた。類い稀な鼓の才能を持っていたが、其れもそうで其の子の母親は天から降り下った鼓が胎内に宿る夢を観て懐胎したのである。生まれた子は天鼓と名付けられ、其れと響きあうようにしてしばらく後に本物の鼓が天から降り下った。子どもは鼓と共に育っていく。

 天上の鼓はただ彼の物であった。少年が鼓を打てば世にも妙なる音が響く。天鼓はまさにそのために生まれてきたのだった。不思議な子だった。いつもにこにこと幸せそうに微笑んでいたが、時々ふっととても悲しそうな顔をした。年の近い子どもたちと一緒になって表で遊ぶということはあまりしなかったが、妙に人を惹き付ける所があって不思議と皆に好かれた。口下手で吃(ども)る癖があったのであまり話さなかったが、喋る時は一生懸命言葉を尽くした。大きな目でものを見、敏(さと)い耳で音を捉えて鼓を打った。其の鼓の音には透き通るような強い悲しみと懐かしさがあって胸を締め付ける。天上の鼓の音の評判は自然に世間に轟いて、田舎の隅から始まってとうとう帝の御耳にまで及ぶこととなった。

 噂を耳にした帝は天上の鼓に興味を持ち、勅命で其れを召し上げようとした。しかし少年は鼓を深く惜しんで愚かにも其の勅命を拒んだ。そして鼓を抱いて山中に逃げ隠れたのであった。

 無謀な試みだった。空しい行いだった。少年はいくばくもせずに帝の差し向けた大勢の官人に探し出され捕えられた。鼓は取り上げられ、少年は呂水(ろすい)の江に沈められた。呂水のほとり、水の中で少年の衣がゆらゆらと水草のように揺れていた。そして天上の鼓は恭しく帝の元へと運ばれて、阿房殿の雲龍閣に据え置かれた。

 宮中へもたらされた鼓は帝の御前で、帝の抱える当代一の楽人によって演奏されることになった。しかし、鳴らない。誰が打てども不思議と音がしない。しばらくして帝は或る人物の元へ勅使を差し向けた。其の人物とは、天鼓の兄である。



「この家に天鼓の兄があるか」

 勅使がこの家を訪(おとな)うのは二度目であった。そして家から出てきたのは一人の少年だった。彼が前に尋ねた少年は子どもらしい体つきに大きな目で怯えるように自分を見ていたが、目の前の少年はもう少し年上らしくほっそりとした体つきで、泣き腫らした目を彼にぼうっと向けている。どことは云えぬがあの子によく似ていた。

「はい、わたしがあの子の兄でございます……」

「帝よりの宣旨である。天鼓が鼓、内裏に召されて後、大勢の者に代わる代わる打たせてみれども鳴ることなし。持ち主との別れを歎いて鳴らぬと思し召され、天鼓が兄に参りて仕れとの宣旨である。急いで参内せよ」

 勅使の言葉を少年はやはり何処か夢現のような顔で聴いていた。

「謹んで参りましょう…… その前に父母に別れを」

 天鼓の兄もまた楽の才に恵まれ、笛の名手だった。しかし天鼓が死んでからはふっつりと笛を吹くことを止めてしまっていた。鼓を打つことも出来なくはなかったが、鳴らぬ鼓を鳴らすことなど出来る筈もなかった。帝の御前で鼓が鳴らなければ、兄もまた其の弟と同じように死罪になるだけだった。

「宮中のどんな名うての楽人にも鳴らせぬ鼓を、たかが子どものおれが参って打ったからといって鳴る道理もないだろうに。いや、しかしおれは勅命に背いた者の兄、つみびとに等しいのだから重ねて死罪にしようと思し召されても不思議ではないな…… 死ぬか…… そしたらあいつに会えるかな……」

 少年は独り言を呟きながら家に入っていく。勅使は思わず声を掛けた。

「いや、そういった勅諚ではないはずだ。ただ参上して鼓を打ちさえすればいい。帝もよもやまた再び幼い子どもの命を召そうとは――」

 其の言葉が終わる前に戸が閉まる。其処に既に少年は居なかった。



 勅旨を受けて、父母はまたしても我が子を失わなければならないことに嘆き悲しんだが、当の本人である天鼓の兄には死を恐れる様子は微塵もなかった。しかし、どうやら何がしかの覚悟だけは決めた様子である。
両親に今生の別れを告げ、故郷を発つと、天鼓の兄は勅使に伴われて都まで旅をした。途中で勅使に頼み込み、許しをもらって呂水に立ち寄った。川は静かに流れている。とても一人の子どもの命を呑み込んだとは信じられないような穏やかさだった。

「天鼓、天鼓、可愛い弟よ。お前の兄はここにいるぞ……」

 死んだ少年の兄は、河原で水にてのひらを浸しながら縁の赤くなった目を細め、憂えに沈んだ顔をしていた。



 一行は都に到着した。時は来た。数日ほど呼び出されるのを待ち、いよいよ天鼓の兄は帝の御前、天上の鼓の前に進み出た。背丈はかなり伸び育っているが、まだ顔つきも仕草も幼い。息をひとつ吐くと、鼓に少しの間だけ手を置いた。そしてやおら手にした桴(ばち)を打ち捨てる。それから鼓と距離を取り、自らが愛用する笛を取り出して口に当てた。

 鋭く清冽な音が響いた。なるほど弟の名声の影に隠れてはいたが、其の兄もまことに得難き天恵を持っていた。人々の口からため息が漏れる。しかし帝一人は其れだけでは満足していない風であった。確かに天鼓の兄は一度も鼓を打とうとすらしていない。観衆は息を呑んで見守る。帝と少年の間に走る目に見えない不穏な空気をよそに、笛の音は淀みなく流れていたが、或る処で唐突に一拍途切れた。同時に観る者の緊張も頂点に達する。

 其処で奇跡が起こった。

豁(かっ)。

 笛の音に合わせて、鼓がひとりでに鳴り出したのだ。思わず帝が身を乗り出す。

飃(ひょう)、飃(ひょう)、豁(かっ)。
嫖(ひょう)、嫖(ひょう)、揳(かっ)、揳(かっ)。
豁(かっ)、豁(かっ)、豁(かっ)、飃(ひょう)。

 笛と鼓は呼応して、一分の隙なく絡み合い、実に不思議なうねりを生み出す。最早人の業とは思えなかった。楽の音は時の流れを奪い去った。阿房殿という場所すらそこから取り払われた。其れどころか、自分と云うものすら溶け出して音楽と一体になるような感覚が聴衆を襲った。楽の最後の一音が已んだ。刹那か劫か、どれほどの時間が経ったのかも分からなかったが、人々は自分の胸が締め付けられていることだけは感じ取っていた。暫くして万雷の拍手が起こる。

 帝が立ち上がった。眦(まなじり)に涙が光っている。此処に来て初めて、彼は自分が気紛れに奪ったものの価値を悟ったようだった。

 少年は笛を仕舞い、一礼して帝を見据えた。

「奏(もう)したいことがあるのならば、奏(もう)せ」

 少年は真っ赤な目でじっと帝を見詰めたまま、口を開いた。

「あれはいつだって懸命に生きていたのに…… 何故死なせなければならなかったのですか。鼓は天鼓のものでした。それが天命だったのではなかったのですか。……あれからずっとわたしは手足をもがれたようなのです、帝。もうないのにあるような気がして、ずっと探してしまうのです。たった二人の兄弟だったのに…… 恩愛の思いの絆は忠義よりなおも強く心を縛って、あれが今もまだみなそこで溺れていたらと思うとわたしもさながら其のように苦しいのです。お恨み申し上げます、帝。もしあの時家を留守にしていなかったら、わたしは迷わず弟を逃がしていたでしょう。わたしは死を怖れません」

 人々は少年の命を投げ打つような発言を聴いて、今度ばかりは死なせてなるものかと思いながら、帝と少年を見守り固唾を呑んでいた。

 帝は暫く黙っていた。そうしておもむろに口を開くと、少年に退出を命じ、自らも其の場を後にした。

 数日後、少年に数多(あまた)の宝を下賜し、天鼓に対して管弦講を以て弔うようにとの勅諚が下った。



 場所は呂水の汀(みぎわ)である。時は三伏(さんぶく)の夏 がようやく過ぎた頃で、風の音が初秋の訪れを告げていた。呂水の水は滔々とし、波は悠々としている。帝も御幸し、天の鼓が据えられた。楽人の中には勿論天鼓の兄が加えられている。蒼々と澄んでいた水の中にとっぷりと鮮やかな茜色の夕日が身を投げ出して夕刻を染め上げる。糸竹呂律(しちくりょりつ) の聲々(こえごえ)が上がり、天鼓の亡き跡を弔う法事が始まった。

 少年は一心に笛を奏でている。鼓は未だ鳴らなかった。だが気にしている素振りもない。何かが彼には分かっているのだった。そのうち人々にも、川の彼岸から軽やかに水面を舞いながら何者かがやって来るのが見え始めた。玉の笛の音聲(おんじょう)は澄み、天人も影向(ようごう) するかと思われるような素晴らしさだったので誰も驚かなかったが、ゆっくりと近づいてくるのは一人の少年である。天鼓だった。

 群集がざわめく。其れでも兄は笛を吹き続けたが、とうとう我慢出来なくなり喉を詰まらせた。笛を放り投げ、駆け出す。

「天鼓、天鼓!」

 天鼓は朗らかな笑顔を兄に向けた。兄は美しい衣装を水浸しにして弟の傍まで駆け寄ろうとした。しかし水が胸まで来たところで後ろから引っ張られ、がくっと体が止まる。兄の腰にはもし川へ入ることがあっても溺れないように紐が結えつけられ、其の端を強力たちが握っていたのである。

「兄さん」

 天鼓の亡霊は顔をくしゃくしゃにしてこちらを見ている兄に歩み寄り、手を取って水の上へ引っ張り上げた。

「天鼓、会いたかった…… 苦しくはなかったか」

「ううん、ちっとも。ぼくなんかより兄さんの方がよっぽど苦しそうに見える」

「そうか…… よかった」

 そう言って天鼓の兄は大泣きした。天鼓は兄の肩を抱きながら岸へ向かって歩く。

「ぼくも覚えていてくれる人がいて、ほんとうによかった。でも苦しませてしまった…… でも嬉しい」

 天鼓は地に落ちた笛を拾って其の土を払い、鞨鼓(かっこ)台の据えられたひと際高い台の上に舞い降りた。

「ぼくは幸せなのです、兄さん。とても楽しくやっているよ。もう縛るものは何もないから…… そういえばぼくは新しい楽譜を百書いたよ。兄さんも書いてくれなかったら勝負にならないじゃないか。折角会えたのだから、もういちどだけ合わせてください」

 兄は弟の差し出した笛を受け取った。これが最後になる。兄は手の中の笛をじっと見た。袖で涙を拭い、天鼓と向かい合って笛を構える。其れを見て、天鼓も笑顔で桴を構えた。其れに合わせて管弦の音が徐々に弱まっていって止まる。誰もが次の瞬間を待っていた。

 笛の鋭い音が静寂(しじま)を裂いた。其れを合図に天鼓も鼓を打つ。管弦の音も次第に立ち上っていく。

 絶景だった。各々の楽の音はあるべきところに立ち現われ、個を失わずに一体となって呂水一帯に広がりひとつの形を生み出す。其処には様々な色彩(いろどり)すら存在した。月宮殿もかくや 、菩薩も此処に天降りますのではないかと思われるような有様である。

 現れた月は空と水とに合わせ鏡のように映り込み、波にぼろぼろと砕かれて光の欠片(かけら)となって散らばる。星々は錬(ね)られたばかりの黄金(こがね)のように清らかに光を放ちながらめぐり、砂のようにぱっと撒き散らされたかと思うとふっと掃き集められたように集う。絶景であった。



 五更の一點鐘(いってんしょう) が鳴る。鶏(とり)の八聲(やこえ)がほのぼのと時を告げ、夜は白み、明けていく。兄弟は顔を上げた。

「ついうっかりともう生き身を持たないことを忘れていた……」

「ついうっかりとまだ生き身を持っていることを忘れていた……」

 兄と弟は顔を見合わせた。

「次に会う時はもうお互いにこの姿ではないかもしれないけども、でもすべては繋がっていて必ずまたいつかひとつになる。だからこれはきっといい終わりなのです。ただ兄さん、ぼくは忘れられてしまうのだけはとても怖い」

 そう言って天鼓は顔を強張らせた。大きな目が微かに揺れている。

「忘れる訳がないだろ。でもよかった。お前はもう何も苦しいことはないんだな。後はずっと笑っていられるんだな。ほんとうに寂しいけど、それならおれも後ろ髪をひかれながら先へゆこう。どうやらおれの天命はまだ尽きていないらしいから」

 天鼓の顔がぱっと明るくなる。兄も微笑んだ。

「名残惜しいけども、そろそろ行かなくては。お父さんお母さん、友によろしくお伝えください。兄さん、ほんとうにありがとう」

 鼓を抱えた天鼓の体はふっと浮き上がって、天に昇りながら消えていく。気付けばあたりにはしらじらとした光が満ちていた。朝だった。










*管弦講:管弦の楽を持って弔う法事。
三伏の夏:最も暑い夏の季節を云う。
糸竹呂律:糸は弦楽器、竹は管楽器、呂律は音楽の調子の名。
 影向:神仏などの現れる事。
 月宮殿:唐の玄宗が月宮殿に到って舞楽を見物したという故事がある。
五更の一點鐘:午前四時頃に鳴る鐘。
 鶏の八聲:鶏が次々と時を告げる声を上げるさま。


  1. 2012/12/24(月) 00:00:17|
  2. 短編
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