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Lao Lao Ting

勞勞亭



 こんな夢を見た。
気付くと私は真つ暗闇に立つてゐた。そして、何故だか判らぬが途方に暮れてゐた。
然(さ)て、私は一体如何したら良いのだらう? 此処が外なのは何とは無しに判つたが。
不意に前方に明かりが燈つた。亭(やかた)であつた。ぼうつと暗闇に唐風の白壁の輪郭が浮かび上がつてゐた。私はホツとして草に降りた夜露にズボンが濡れるのに構ひもせずに明かりに向かつて走つた。
 無我夢中で戸を開けて這入つた裡の景色に私は暫し立ち尽くした。其処は人倫通はぬ山奥の谷から沸き出づる川のほとりであつた。其の向かう岸の青青(あをあを)と苔生(む)した岩々の上に、唐朝の白い着物を着た十(とお)ばかりの少年(せうねん)が、丹塗りの盃(さかづき)を手に、頬にほんのりと赤みを差して、微酔(ほろゑ)ひの様子でゐたのであつた。真に愛(うつく)しく清らなる情景であつた。

「誰(だい)ね?」

 少年の眼が漸く私を捉へたやうであつた。

「貴方(わい)の、天下で最も人の心ば悲します処、旅人ば送る此処、勞勞亭さんなして来よらしたか良う覚へてんばつてん、そがんことはだうでん良か。此方へ(こけ)来てくれんね」

 さう言ひながら、少年は川を渡つて、此方(こつち)の岩へよぢ登つた。勞勞亭(らうらうてい)。支那の南京にあつたと云ふ旧蹟のことであらうか? 私は詩仙・李白の彼の地に就いての詩を幾つか知つてゐるに過ぎなかつた。

「おいはキクばい。おつと、江戸弁ばしやべらんと。おいは長崎ん生まれなんたい」

 頬のふつくりとした少年は、天真爛漫其の物の様子(やうす)で私を視て云つた。

「そいで、小父(おい)さんはなして死んだと?」

 其の言葉に私は不思議と衝撃を受けなかつた。相変わらずお国言葉は直つていないぢやないか、と思ひながら平然と答へてゐたのだ。

「仕事帰りに家の近くの道を歩いてゐたら、心臓が急に痛くなつたのだ。私はそんなに根を詰めてゐたかしら?」

 訊いておいて少年は私の答へに然して興味を持たなかつたやうだつた。

「小父(おい)さんは此処のどがん処か知つとつと?」

 然ては標準語を知らないのだなと私は思つた。

「いいや」

 少年は刹那、丸(まる)で何かに耐へるやうに眼を一寸(ちよつと)大きくした。

「死者ば次の世に送るとがおいの役目ばい」

 川の流れを盃で汲み、至る所に繁つてゐる菊の花を摘んで浮かべ乍ら、少年は続けた。

「菊より滴る露は此れ即ち霊酒なり。其の味ひ天の甘露の如くにして、恰も百味の珍に勝れり」

  少年は私に盃を差し出した。

「此(こ)ん流れは菊の葉に置く露が滴り流れて不老不死の霊薬となつとんのばい。気休めでしかんばつてん、次の命が長く続くごと、今はただ飲んでくれんね」

 少年は優しく微笑むと、懐から笛を取り出して、吹き始めた。楽に明るくない私には一体何と云ふ曲であるのかは皆目判らなかつたが、其れは明るく、無邪気で喜ばしい曲であつた。菊水を口に含むと、其れは確かに天上の味(あぢ)はひであつた。次の世が何(ど)のやうなものになるかは判らぬが、私は実に穏やかな心持ちで其れを迎へやうとしてゐた。



                                                      了
  1. 2009/04/16(木) 22:40:45|
  2. Strange Javas
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