inkblot

絵葉書3


 寒い。そこは一面氷上やった。厚い氷が張っとるけど、一体どれだけ大きな湖なんやろう。地の果てが霞んで見えんかった。寒い。歯ががちがちがちがち鳴っている。ぼうっと立っていたら、凍死するやろう。そう思ってとにかく歩き出した。行くあてなどないので、やたらめったらただ一直線に歩き出した。うろうろするよかましである。下手をしたらどこかにつくかもしれん。とちゅう滑って何度も転んだ。弟が見たらまた小言やろう。まあどうでもええか。ここにやつはおらん。

 歩きまわったら足が痛くなった。僕はしりもちをつくように座り込んだ。氷を覗き込んでみる。吐く息が当たって、氷は鏡みたいになった。綺麗やな。でも汚い顔よか水の中が見たいもんやな。手に体重をかけて見ていたら、氷にひびが入り始めた。まずいと思った時にはもう氷は割れていた。僕はそのまま大きな水たまりの中に落ちた。
水は心臓が止まるほど冷たかった。そのショックで本当に息が止まってしまった。暗い水はどんな刃物よりも鋭く冷たくて、どんどんどんどん沁み込むのだ。体はずんずんずんずん深く沈んでいった。いつか分からないが、どこかの時点で僕は気を失った。



 気付けば砂漠に落ちていた。水気はすぐに砂に吸われて蒸発する。僕は体を起こしてひじに張り付いた砂を払った。太陽は火焔の輪を描いてゆらめくように燃え、体から水分を吸い出す。僕はあてどもなく彷徨(さまよ)った。からからなのになんでこんなに汗が流れるんやろう。踏みしめた足はずぶずぶと黄土色の砂に埋もれる。からだから汗が流れきって干物みたくなったら、僕は焦げついてここにずっと転がりっぱなしなんやろうか。流れ落ちた汗が砂の上に落ちて音を立てて、ひとつかみの白い煙を立ち昇らせた。

 意識がところどころちぎられたみたいやった。一回転んだら熱くて死にそうになって飛び起きたので、覚えていないがずっと歩いていたんやろう。遠くにオアシスが見えた。でももう百回くらい同じ蜃気楼を見た後だったので、特にどうとも思わなかった。足取りはふらふらとしていてなんだか歩いているというよりは空を浮いてるようやなあ。蒼い水辺がゆらゆら揺れている。足がうまく動かなくて、僕は前に倒れた。からだが水分を取り戻して、意識に現実感が戻る。からだの下にはオアシスがあった。蜃気楼ではなかったのだった。


 次は土砂降りだった。僕は茫然とあたりを見回した。赤、黄、青。駅のホームにあるようなプラスチックの丸みを帯びた椅子だ。それがけぶるようなどしゃ降りの下、放置されている。その真ん中に僕は座っていた。

 あたりには何もない。何もない荒野だった。絶望するくらい何もなかった。僕は視線を落とした。雨に濡れてくろぐろとした石ころが湿った砂塵の上にてんてんてんてんと当てどもなく転がっている。これは僕や。そうして待てども来ないものをただただそこいらに転がって待ち侘びているだけなのやった。世界の果てがあるとしたら、多分きっとこんなところやろうなと思った。わびしさが雨粒と一緒にからだに沁み込んだ。

「帰ろう……」

 僕は誰ともなく呟いた。そうや、帰ろう。自分、何やっとったんやろうな。僕はズボンのポケットを探った。くしゃくしゃで何が何だかもうさっぱり柄が分からない絵葉書が一枚だけ出てきた。でもなんとなくこれが自分の家なのが分かった。僕はためらわずにもぐりこんだ。



「兄さん、おるん? また講義さぼったんやろ?」

 帰ってきたんやな…… 部屋を見まわしていると、弟が母親みたいなことを言いながら僕の部屋のドアを開けた。ああ、帰ってきたんやな……

「うわ、なんで濡れねずみなん? なあ兄さん、聞いとる? とにかく早くお風呂入ってきいやあ!」

 弟はあろうことか腰に手まで当てている。お母さんか。とりあえず立ちあがろうとしたら、右足に激痛が走った。

「あ、足くじいた」
「もう! 兄さん、ぼけっとしとるからやろ? どうやって帰って来たん? それよか今日バイトやったんやないの? どうしたん?」

 言われて思い出した。窓の外を見る。まっくらだったので、たぶんもう終わっている時間やと思った。

「ああ…… でも足くじいたから行けへんかったで」
「兄さん、もうええ加減にしいやあ!」
「ほれ、もちゃもちゃ言うてないで自分、早く肩貸しいや」

 弟は何か言いかけたがやめた。

「なんか変な音がするな……」

 ひゅーっという音につられて窓の外を見やると、花火だった。赤。青。緑。金。色とりどりの火の粉のすじが枝垂れて花になる。

「きれいやな……」
「そんなこと言っとるけど、濡れっぱなしで自分風邪ひくで。もうぼくがタオル持ってくるから待っときい」

 そう言って弟は部屋を出て行った。僕は首を戻して花火をまた眺めた。見えるか見えないかくらいのかすかな火の玉が音だけで空にあがる。火の粉が飛び散ってぱっと花が咲く。花がしおれるように火の粉がちりぢりになる。そのどれもひとつひとつばらばらの点で、どうしても一連の流れなんやとは思えなかった。絵葉書が一枚いちまい別物なのと同じやな。




おわり


  1. 2011/10/05(水) 10:00:00|
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