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おちくぼの姫君


 今夜は月のたいそう綺麗な夜です。
それだけに、冷え込みも一段と厳しいのですが、わたくしの口からこぼれる息までも、綿のようにふわふわと浮かんでは消えていくのが美しくて、つい見とれてしまいます。

 でもいけません。母上がお言いつけになられた縫い物のおしごとがまだ終わっていないのです。
母上は明日までとおっしゃっていたので、ここはひとふんばりです。
指先もかじかんで、なんだかうまく動かないのですが、ちょっとでもしくじったら大変なことです。
ここは他より一段ひくくおちくぼんでいるから、余計さむいのかしら? 
そう思いながら、わたくしは針をちょっと置いて、指先をこすりました。

 母上はたぶん、わたくしのことを何か誤解してらっしゃるのだと思います。
わたくしはどうしたら母上に気に入っていただけるのでしょう? 
お裁縫はなんとかできるけれど、ぼうっとしたところがいけないのかしら? 
どうか、そのうち母上に気に入っていただけますように。なむなむ。わたくしはお月様にむかって手をあわせました。

 見上げた月がやっぱりとても綺麗だったのでふと楽を奏でたくなって、わたくしはおろろまろを手元に引き寄せました。
おろろまろというのは琴のなまえです。わたくしがつけました。
わたしくはちいさいころ、『お琴』がうまく言えず、『おろろ』と言っていたのです。
阿漕はいつも、『お姫様はかわいらしくて、優しくて、おっとりとお上品で、何でもお出来になるほんとうに素敵な方ですけれど、名づけだけはいけません。あと、ちょっと鈍感なのも』といいます。
阿漕というのはわたくしの乳母子です。ちゃきちゃきしているけれど、わたくしのことをいつも心配してくれている、とてもやさしい子です。
あの子のいうことはいつももっともだと思うけれど、ものになまえをつけるのだけはやめられません。
わたくしの数少ない趣味のひとつなのです。

 見た目こそこんな有り様ですが、こえでもわたくしは結構たのしくすごしています。
縫い物はもともと好きでしたし、おろろまろも弾けますし、いろんなことを考える時間もたくさんあります。
阿漕はみながわたくしのことを『おちくぼの姫君』と呼ぶのを聞くといつもぷんぷんしますが、わたくしはあんまり気になりません。『おちくぼ』という語感が嫌いではないからです。

 あとすこし弾いたら、がんばって縫い物をしあげることにいたしましょう。
わたくしはおろろまろをつま弾きながら、ふんっと気をひきしめました。

  1. 2009/07/18(土) 21:48:12|
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