inkblot

Invisible Ink

A に


 ぐうたら通り(アイドラーズ・ストリート)を歩いていたら、タミーに呼び止められた。タミーっていうのは、小さな雑貨屋をやっている変なおじさんだ。

「何?」

「お前にいいもんがあったのを思い出したんだわ。ちょっとこっちへ来な」

 タミーのあとについて店に入りながら、またへんなものを厄介払いしたいだけなんじゃないだろうかと僕は警戒した。前にでっかいガラクタをもらって帰って、母さんにすごく怒られたことがあるんだ。

「大きいものならいらないよ」

 タミーは僕の言葉を無視して、手近な棚から取り出したものをカウンターの上においた。

「これよ」

 それはどうみても、ただの空のインク壜だった。僕はタミーの顔をみた。

「捨てなよ」

 それを聞いてタミーはとんでもないという顔をした。

「言っとくが、ゴミじゃないぞ。前に変な問屋が置いてったんだよ。置いてったはいいが、こんな使い道のないもん売れんしなあ。ほれ」

 タミーは僕にインク壜を持たせた。

「見えない(インヴィジブル)インクだって言うんだよ、これが」

 なるほど、まったく目には見えないけど、たしかに手には壜以上のおもさが伝わってくる。ためしに揺すってみると、なかで液体が揺れるのが感じられた。

「わかったよ。特殊なあぶり出しインク(インヴィジブル・インク)なんだね。たしかにここまで透明だと使いにくそうだ」

 僕がそう言うと、タミーはためいきをついた。

「ちがうんだよ。あぶり出しインクなんかじゃないのよ、こいつは。色々ためしてみたけどなあ、何をどうしようが見えないインクは見えないまんまなのさ。こんなんじゃ、客からクレームがついちまう。そういうわけで、そいつはお前にやるよ。使いかたがわかったら教えてくれよな」

 タミーは僕を店から押し出しながらいった。最近、僕がタミーからあまり変なものをもらわないように気をつけているせいか、いらないと言われる前に僕を店から追い出そうとしているらしい。失礼だなあ。それにしても、口じゃあ、売れなくてこまってるようなことを言ってるけど、じっさいタミーが商売に精を出してるみたことはないし、第一彼の売ってるものはほとんど使いみちのないものばっかだから、たぶんこのインクも飽きて邪魔になっただけなんだろうな。

「じゃあな、アート!」

 僕をすっかり通りに出してしまったタミーは、そう言ってバタンとドアを閉めた。



 まあ、この大きさだったから母さんにも怒られないですんだけど、一体どうしようか。僕は机の上においたインク壜を眺めた。とりあえず、タミーの言ってたことが本当かどうかたしかめてみよう。
ひきだしから使っていなかった緑縞の万年筆を取り出して、壜のふたを開けてペン先を浸した。固まりやすいインクだったらどうしよう。ペン芯がガチガチになっちゃったら直してもらわなきゃならなくなるなと思ったけど、思い切って尻軸をまわしてインクを吸い込ませた。フールスカップのきれはしを引き寄せて、とくに何も考えずに自分の名前を書いてみる。

         Arthur Heyse

 うーん。ふつうのあぶり出しインクなら、乾くまで跡が見えるんだけど、これはほんとに見えないな。さわってみても、湿っているようなかんじはしない。ついでにインク壜にも指をつっこんでみた。

「あ、つめたい!」

 見えないけど、たしかに感触がある。僕はびっくりして自分の指を見つめた。

「これは変わってるよ! うーん、むずかしいだろうな。見えないインク(インヴィジブル・インク)だから、化学反応(ケミストリー)を起こせばいいのかな? そうだ、兄さんの実験室へ行ってみよう」

 僕の兄さんはめちゃくちゃ頭が良くて、むかしはよくいろんな実験をしてたんだ。とおい寄宿学校へ行っている今は、医者になりたいんだと言っている。今日は父さんも仕事で遠い所へ行っているし、だいじょうぶだ。
 僕はインク壜とフールスカップをひっつかんで階段を駆け降りると、庭のはずれにある兄さんの実験室に飛び込んだ。フールスカップを細かく短冊状に裂いてインクに浸すと、僕はそれらにかたっぱしから色んな薬品をかけてまわった。細かい溝の入った壜にもずいぶん手を出したので、強い酸をひとつこぼしてしまって、ズボンがちょっと溶けたけど、ひととおり試してみても、インクは相変わらず見えるようにはならなかった。

「もう無理だよ! これいじょうどうにもならないよ!」

 そううめいてあきらめかけた時、開いていた窓から淡い色の花びらが風といっしょに入ってきた。cherry blossomでもkirschblüteでもない。桜(サクラ)の花だ。もともとこの土地にある木じゃなくてわざわざ植えたものだけど、僕はこの木が好きだ。薄い夢見るような花びらは、咲き誇ったかと思えばそれと同時に散り始めている。だから、桜が咲く季節になるといつもそわそわするんだ。そして、花びらといっしょに吹きこんできた風もやっぱりやわらかい匂いがした。もう、春なんだな。そう思うと、しぜんに涙がこぼれておちた。なんでなんだかわからないんだけど、僕はみんなとちがうらしい。こういう時、心をつよく動かされるのは、むしろここからずっととおい東の方に住む人々に多いことらしいんだ。そういえば、桜の花も遠い東にある桜の国のものだから、やっぱり人のこころを特別うごかすのかもしれない。
 そんな物思いからあわててぬけだして、ずいぶん散らかしたから、はやく片付けないと帰ってきた父さんに怒られちゃうなと思いながら実験台の上をみると、ちらばったフールスカップの一片が桜色に染まっていた。

「なんだこれ……」

 紙を透かしてみたりしたけど、何でかわからない。

「これにはたしかまだ何もかけて……いや、そういえばさっき涙が落ちたかもしれないな」

 僕はあわててほっぺをつねった。痛くて、涙がこぼれてまたちがうフールスカップの上に落ちた。急いで拾い上げると、フールスカップは青みがかった色になっていた。

「まったく変だな!」

 僕はくびをかしげた。
 そうだ、そろそろ兄さんに手紙を書く頃だから、ついでにこの不思議なインクのことも訊いてみよう。なぜか、兄さんなら何かしっている気がしたんだ。
 夜、寝る前に僕は赤縞の万年筆をとって、ニコデモとやった遊びのことや、博士にならったこととか、最近あった出来事と一緒にタミーにもらったインクのことをくわしく手紙に書いた。蝋をたらして封をすると、もうずいぶんねむかったもんだから、その日はめずらしく本を読まないで寝たよ。



「アーサー、アレンから手紙よ。でも読むのはご飯を食べ終わってからですからね」

 手紙を出してからしばらくした日の朝、母さんが渡してくれた手紙の封を開けようとしたら怒られた。いそいで残っていたトーストをミルクで流し込むと、今度は後片付けをしなさいと声が飛んでくる。お皿を片付けようとキッチンに向かおうとしたら、椅子につまづいてお皿を割ってしまってもっと怒られた。後片付けはもういいから部屋に行きなさいといわれて、僕は兄さんの手紙を引っつかんで階段を駆け上がった。机につくと、大音量でかけっぱなしにしているレコードもそのままに、僕は兄さんの几帳面な字を追い出した。

    ・・・

アーサーへ
 長い手紙をありがとう。元気そうで何よりだ。今は試験の最中だから、あまり長い返事を書くことができなくて済まないけれど、もらった手紙に書いてあった、不思議なインクについて、前に聞いた話を書くよ。君はそういうことになると、いつも知りたくてうずうずしっぱなしだからね。おっちょこちょいなことをして、母さんを困らせちゃだめだよ。さて、僕の聞いた話はこんな感じだった。


 とおい遠い昔、強大な異国の王によって国を失った流浪の民がいたそうだ。故郷を失った彼らは、すでに国を再び建てる力を持ってはいなかった。果て知れず続く長い長い放浪の旅の中で、次第に人々はあちらこちらに散り散りになっていった。

 そうして、最後に一人の男が残ったんだ。彼は自分もそう長くはないことを悟っていて、残された最後の力で失われた彼の国についての果てしない歴史書を書き上げると、この世を去った。

 『歴史書』。それには彼が作り上げた不思議なインクが使われたと言われている。彼は故国の誇る魔法使いの一人でもあったからね。聞くところによれば、そのインクは読む者の流す涙によって初めてその姿を現す。失われた王国を悼む、離れ離れになった国民の涙によって。そして魔法使いの歴史書は、今もどこかで読む者を待ち続けているのだと。


 この話に出てくるインクが君の話してくれたインクと同じものかどうかは分からないけれど、涙ってものは色々と複雑で、僕も昔から研究しているけれどいまだによくわからないぐらいだ。それに、タミーが懇意にしている卸売商は不思議な人らしいからね。

 まあ、僕が知っている不思議なあぶり出しインク(インヴィジブル・インク)についての話はこれくらいだ。試験が終わったらまた手紙を書くよ。みんなによろしく。
                                                                                                              兄より

    ・・・

 手紙を読み終わって、僕は机の上のインク壜をぼんやりと見つめた。まだ頭の整理がつかない。兄さんの手紙を読んだら、前よりももっと頭がこんがらがったようになっちゃったんだ。でもとりあえず、タミーには言っとかなきゃならないな。



 いつものように通りに面した店の前で、椅子に座ってだらだらとギターをつまびいていたタミーは、向こうから走ってくるアートに声をかけた。

「よう、アート。博士のところに行くのか? そういえば、お前に見せたいものが……」

 肩で息をしながら、アートは彼の言葉をさえぎった。

「ガラクタなら間に合ってるよ。それはどうでもいいけど、この前の見えないインク、あれは売り物にはならないよ」

 そう言うと、言葉を返す暇もなくアートは走り去ってしまう。タミーは肩をすくめると、また暇をもてあましたようにギターを弾き始めた。




                                                                                                                      end
  1. 2009/06/16(火) 00:09:07|
  2. etude
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