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20150211 メレンゲ CAMPFIRE TOUR FINAL at Zepp Diver City


なんかなかなか書き終わらないので途中だがいったん載せておく。ちょっとずつ書き足していくかもしれない。ところでナタリーのレポはなんか結構間違えてるよな。




 行って来た。お台場とかホントにくそほどに用のない場所である。もうダイバーシティの中とか、たぶん日本人よかアジア人旅行客の方が多い、あとカップル親子連れが多い。もう中入るまでペッシャペシャだったが、会場に入ると、上空に漂っている靄(スモーク)に照明が差し込んで、まるで赤黄色のオーロラのようだった。はじまる前からこの上なく美しい。2011年4月30日の渋公を思い出していた。震災の直後だったが、まだあまり使われていなかったLEDを照明に多用していて本当に美しい世界観だった。全く耽美的とかではないが、照明や音響といった空間の作り方からうかがえるクボの美意識が好きだ。

 SEは「CAMPFIRE」のイントロだ。深遠で微かな音の響きが空間を満たす。下手からメンバーが姿を現す。サポートの松江と皆川、メンバーのヤマザキ、タケシタ、そしてクボがそれぞれの楽器を手に取る。クボの手には飴色のテレキャス、松江は蒼いシタールギターのストラップを肩に掛けた。暗がりのなか、おもむろにクボがテレキャスにピックを振り下ろして歌い出す。「CAMPFIRE」。物語とは、供犠である。勝手に口をついて出るモノの語りこそが、畏れ多きモノへの供物となる。モノとはカミかもしれない、死者かもしれない。歌うその声は、その言葉はいったい誰のものなのか。ライブという供犠の場が、この曲によって幕を開ける。クボの声は張り詰めている。緊張でガチガチの声ではない。ギリギリまで抱え込んでいたものが、燃える炎の仄かな明かりに見守られながらあふれ出していく。あふれきったものがふっと微かな煙だけを残して吹き消される。暗闇のなかで「ありがとう」というMCがぽっと灯った。

 「グレゴリー」。フェイクを入れていて驚いた。苦手だって言ってたよな。どこか危ういフェイクである。「僕らについて」。「いざエモーショナル」というあたりで声が詰まってしまうのが個人的に残念だ。「ライカ」。へなちょこプログレのグル―ヴも増してきているな。続けて「アンカーリング」。リリース前に初めて聴いた時からすると、かなりものにしている感覚があった。そしてこちら側にも染み込んできた気がする。

 MCは息も絶え絶えという感じである。大きいハコでのワンマンは大体めちゃくちゃ緊張しているのでいつもこんな感じである。にやにやしながら「変わろうと思えば、人は変われるらしいです」と言って、「エース」。伝聞なのかよ。笑 しかし最近のクボンゲは曲の前振りとか意識してやるようになったな。ちょっと前までそんな高度なことはできなかったのに。すごい進歩である。まあまだ日本語怪しいけどな。

 ヤイリの前から持っているアコギに持ち替えて「魔法」。かなりフェイクしようとしている。最後のサビでは「何も無い約束」でフェイクして、「もっと近づけるように」というところで伸ばしてためる訳だが、伸ばした高音をおもくそはずしてめちゃめちゃ決まり悪そうに咳払いし、残りを歌っていた。

 クボがギターを置く。
「夢をかなえたのか、まだ夢を追いかけてるのか、、よくわかんないですけど。。でももう少しやりたいと思います。・・・ありがとうございます」という風にたどたどしく話して、緑の光があふれる。ステージ奥の壁は丸めて伸ばした紙のようなシボが入っていて、緑色の照明と皺の作り出す陰影が木々のようだった。ハンドマイクで「夢の続き」。2011年の渋公からすると、やはりギターを持っていない時の動き方が分かってきている。

 曲が終わるとクボはアコギを持ち、タケシタもベースを持ち替え、「じゃあそろそろ席についてもらって。。。」みたいなことを言い出す。メレンゲはわざわざ座席指定のハコとか、今はなきAXに椅子を並べておきながら「座るな」と言い出す頭のおかしいバンドである。なんかの罠かなと思っていると、クボが話し始める。

「せっかく椅子もあるんで。。。みんなに座ってもらって、ゆっくり聴ける時間も作りたいなーと思って。。。。。まあでも、またあげてくんで、そしたら。。。」
「空気読んでもらってね。笑 」
「せっかくなんで、最近全然やってない、めずらしい曲をやろうかなと。。。」

アコースティックセットではじまったのは「ムカデノエキ」。マジか。アコギでアルペジオを爪弾きながら音源そのままの歌い方で歌う。まるでタイムカプセルのようにあのままの世界が広がっていく。アレンジはより精緻だ。「街はちょっと早送り」というところで演奏がちょっと止めるところがいい。

クボ:曲を作る時に、最初のころは自分の地元を、地元の風景を思い浮かべてたんですけど、、、えー、、、最近はもう東京のことばっかで。。。東京に染まって。。。。。東京に汚されて。。。。。。
タケシタ:汚されたって言うなよ!苦笑 
クボ:でもこの「ムカデノエキ」という曲は、、あの、最寄りの駅の線路がムカデっぽいなーってところから出来たんですけど。。。阪急××駅っていう駅で、、、すごいいいとこなんで、よかったら行ってみてください。。。

 実家の最寄りってそっちか! くそ、某所までは行ったことあるが手前で降りて行かなかった! ぬかったッ! だがなるほど。今度関西に行く用事があったらついでにあのあたりを歩いて空気感を確かめてみたいものである。ところで最寄りが分かったからってみんな実家突き止めたりするなよ! 

皆川神の長いイントロから「東京にいる理由」。松江はフラットバックのマンドリンに持ち替えている。

  1. 2015/02/27(金) 15:32:21|
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20150224


 かなり久しぶりに志村日記を読みふけってしまった。そして気付いたことがある。志村が日記を書き始めたのは2004年2月3日。これは志村23歳の時、そう、小生と同い年なのだ。われわれは誕生日も二日違いだから、かなりの精度で同い年の時の志村の日記が読めることになる。今まで志村はずっと年上だったが(11歳も上である)、まさかここで並ぶとは。なんか感動。

 ほぼ完璧に同い年の志村はちょっとガキっぽいなとも思うが、でもバリバリ働いていて大人である。23歳の今頃は本当だったら社会人2年目に突入しようという頃だから、そりゃ志村が当たり前か。あと志村はビールが飲めるが、自分は飲めない。昨日の飲み会もコーラで乾杯だったしな。コーラは飲む前になんとなく心の中で志村に捧げてしまう。

 志村はダラダラと散文を書くのはうまくないが、コンビニまで無駄に走るくだりとかはやっぱり光っている。でも草々とか言葉の使い方がちょいちょい間違っている。それも面白いが。

 23歳から29歳まではずっと同い年の志村がいるんだな。なんかちょっと嬉しかった。ちなみに23歳の志村は今日、レコーディングから朝帰りしてリハスタとか取材をこなしたらしい。



  1. 2015/02/24(火) 15:53:21|
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20150214 初恋の嵐 クボンゲ編


 隅倉の声に呼ばれて安部コウセイの次に飛び出してきたのはクボである。毎回小さいハコでやる初恋の嵐だと勢いよく飛び出してくるが、今回も、というか今回はいつもよりすごかった。風のように飛び出してきて、激しく頭を振りながら歌う。めずらしく無帽で、白いシャツに黒いカーディガンである。服装もあいまってどこか高校生みたいだ。いるよな、こういう高校生。

 一曲目は「初恋に捧ぐ」。テンションは高い。キーが低いからものすごく歌いづらそうだ。声も音圧に負けている。だがひるんではいない。嵐のように歌う。サビ前なんか完全にシャウトだ。喉を潰して曲をねじ伏せにかかっている。振り乱した前髪が目をよぎる。しかしさすがにオーディエンスを見つめ返す余裕はないらしく、視線は終始上空を泳いでいた。体を折って歌い込む。サビにさしかかると横を向いて歌い込んでいたのは意図してだろうか。だとしたら正解かもしれない。目を剥いているところをオーディエンスに観られずに済んだからな。全体的にかなり荒削りだが、でも誰が歌ったよりも初恋の荒々しさが出ているのではないか。この必死さがいい。

 関西弁訛りの「楽しい」という一言を発して、「Body&Soul」。クボは重量感の全くない声質なのに、これはかなり攻めの選曲である。青臭いこの曲に今日のクボは妙にはまっていた。やはり激しい身ぶりで熱唱する。11日、「魔法」で高音をおもくそ失敗していたのでこの曲だと分かった瞬間、高音が心配だったのだが結構綺麗に出ている。間奏ではスティックをつかみ、めちゃめちゃにカウベルをたたきまくっていた。この夜、誰よりも嵐だったのは、クボケンジ、この男だった。本当に嵐のように吹き荒れて、あっという間に去って行った。

 しかし、こうして久しぶりにクボさんの初恋の嵐を聴くと、クボの声質の本質的な軽さ、細さと初恋の嵐の曲のガタイの良さを改めて実感するな。西山のボーカルもいくらかハスキーなのであまりゴツいイメージはないが、でもやっぱりかなりパワフルである。ていうか、クボさんはホントにどうした。あんなクボンゲ観たことないっす。そもそもシャウトするような曲は絶対書かないからな。メレンゲがギターロックに振りきれなかった理由が今夜ちょっと見えた。ゴツいロックをやるにはやはり声のエアリーさがネックだな。実にいい声なんだが。でもよかったなあ。すげーアガった。11日から今日のライブでとどめを刺されてしまった。むしろメレンゲでこれを観てみたいと思ったが、しかしこれは二曲が限界だな。それからあのハンドマイクはじめてだった時と比べると、驚くほどギターを持っていなくてもたたずまいがかっこよくなった。右手がついピックを握っているような、来迎印になりがちなのはいいと思います。十年後もぜひ来迎印でいてほしいものである。


  1. 2015/02/14(土) 23:53:27|
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20150207


 御無沙汰している。いろいろ調子が悪かったり忙しかったりで24日の記事もまだ清書できていないのだが、べつに忘れている訳ではない。というか、毎月毎月書いていて先月だけ忘れるはずがない。それは忘れたのではなく、痴呆じゃないか。

 しかし特に病んでいるとも思わないのだが、感受性の一番繊細な部分がだいぶくたびれている感じがするな。下旬には忙しさもひと段落つくと思うので、またぼちぼちやっていきたいものである。「バリバリやろう」とか思うとまたやれなくなるので、やりたくなるのを待つ作戦だ。書きたいことはあるのに、載せるところまでうまく繋がっていかないのはどうしてなのか。うちのロマンチックおじさんなんか、一週間で一〇〇枚書いたりするくせに人差し指二本でタイプしてると言い張るのだが、絶対ウソだろ。やる気出ないのは半分くらいはロマンチックおじさんが今年入って四月まで授業をしやがらないせいである。先生め! 

 研究会やフィールドワークの予定もあるので、予習や支度もある。今年、できれば四月と八月と十二月にフィールドワークに行きたい。必要なものをそろえたりもしたいのだが、何かお金を使うとお母さんの小言が飛んでくる。だが、お母さんが怖くて実家通いで院に行けるか。小生は内田百閒が好きなので、お金の心配は手元になくなってからしようと思う。今、久世光彦『百閒先生月を踏む』を読んでいるのだが、『一九三四年冬―乱歩』ほどではないもののなかなか面白い。

 しかしそろそろ殊能センセーの命日だな。日記を読み返しているが、めちゃめちゃ面白い。「泡坂妻夫はトリックを追求した結果、変態性の強いミステリになっているのではなく、たぶん本人が変態だからああいうトリックになるんだと思う」と言っていて笑った。たしかに『湖底のまつり』はやっぱり変態すぎる。

 明日5時起きなのでそろそろ寝ないとな。んじゃまた


  1. 2015/02/07(土) 22:50:31|
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20150124


 なんか調子が悪くて全然書けなかった。

 24日は室生犀星の「童子」「後の日の童子」というふたつの短編のことを考えていた。犀星は最初に授かった男の子を生まれて幾ばくもしないうちになくしている。室生犀星、顔は怖いがああ見えて実はものすごく情の深い男である。体の弱い赤ん坊が熱を出したりするたびに血相を変えて病院に飛んでいく。

 けれども両親の腕のあいだを抜け落ちるようにして、子どもは死んでしまう。それまでとはうってかわってひっそりと静まり返った暮らしのなかで、父と母は我が子を幻視する。しゃべることもできなかった赤子がどこか大人びた童子の姿になっている。四、五歳ほどの、笛と太鼓をたずさえて、暗い昏い道をちいさな足で、かなしい顔をしてあてどなく歩き続ける童子である。その果てのない道ゆきの途中、ほんのひと時だけ、童子は父母の前で遊ぶ。その光景の痛々しい幸福さ。すべてが無理なのは誰もが分かっている。目が覚めたら、おそろしい虚無が待ち構えている。その未来を先送りにして、永遠に引きのばされた時間だ。

 死児に引き寄せられ、死児を招ぎ寄せる父母。内田百閒「道連」もそうだが、こういった作家たちの描き出す死者の立ち現れ方というのは、古い古いところから発しているものだ。死者という幻が現実を侵す。夢と現が曖昧に溶け合うところに、死者の声が響く。物語とは依りつくモノ=死者の語りであり、そして物語とは、供犠である。死者へと捧げられた死者の語り。死者の生きた物語を語り直すことが死者への供犠なのである。

 しかし「童子」「後の日の童子」は凄絶である。想像力は地を離れて翔んでゆく。何よりも濃密に幻が日常を生きている。死者にいっときではあれ、今ひとたびの生を与え得る想像力の強固さに皮膚が粟立つ。もう一度それがほしい。


  1. 2015/02/02(月) 22:47:04|
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