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『僕らについて』

 メレンゲの移籍後3枚目のシングルにして、松本大洋原作のアニメ『ピンポン』のエンディング・テーマである。ノイタミナといえば、ソニーのアーティストがOP・EDを担当するのは当たり前なのだが、『ピンポン』がアニメ化するタイミングでメレンゲがワーナーから既にソニーに移籍していたというのは運命かもしれない。

 『ピンポン』といえば、やはり評価の高い実写版の影が避けようもなくついてまわる。それはアニメのストーリーだけでなく、音楽についても言えることだ。スーパーカー。『HIGH VISION』期のエレクトロニカに深く傾倒した、あのイメージ。その正当な後継者こそ、メレンゲだ。スーパーカーにおいて、ひねくれた蒼い詞と電子的なサウンドの幸福な結婚は叶わず、危うい均衡は破れ、後には青春の墓標のごとき苦さだけが残った。しかしメレンゲは、スーパーカーが果たせなかった夢を易々と手に取ることができる潜在的才能を持つ。下らない言葉を重ねるまでもない。「July」を聴いてみてほしい。あるいは「スターライト」、「ふきのとう」を。歌の前に何ひとつ言うべきことはない。

 メレンゲというバンドが目指す理想というのは、初期グレイプバインのような毒を含みながら洗練されたポップさだったが、その一方でクボの宅録時代から長くエレクトロニカへの志向を持ち続けていた。『ギンガ』以来、たまに表に顔を覗かせつつも、それは地下水脈のように血のようにメレンゲに流れている。

 だが、メレンゲはあまりおおっぴらにエレクトロニカに傾きたがらない。『アポリア』リリース時のツアーでは既発曲がかなりエレクトロ寄りのアレンジを施され、当時はそれがメレンゲにおけるエレクトロニカの時代の到来を予感させるもののように思えた。実際は次作『ミュージックシーン』ではどちらかというとダンス寄りになっていく訳で、期待は潰えた訳だが。嫌いではない、むしろ好きだが理由があって自由にやれないので、時々形にしてガス抜きをしているような印象も受ける。

 なぜメレンゲはエレクトロニカの志向を持ちながら、それでいてどこかその志向を抑圧するのか。それはエレクトロニカに傾きすぎるとポップネスが失われるからではないか。メレンゲ≒クボの作る曲はクボ自身が語るように、「マニアックであっても最終的にポップに着地するもの」である。エレクトロニカというマニアックなジャンルへの志向を解放してしまうと、規範(ルール)を超えて欲望が加速してしまうのではないか。そんな危惧があるという可能性もある。

 それに、メロディーメーカーとしてのクボの素質がエレクトロニカを超えているということもあるだろう。「うつし絵」は新垣結衣のバージョンがクボのデモにかなり忠実なものだというが、それは宅録の閉塞感があって、電子音の静謐な檻のようである。アレンジはメロディに翼を広げる隙を与えない。優しく翼をもいでいる。メレンゲの島田昌典によるアレンジで、メロディはようやくその威容を顕す。「うつし絵」を聴く限り、クボの深い部分に根付いているエレクトロの志向性がメロディの豊かさを半ば殺してしまう可能性というのはあり得ると思う。

 しかし、「僕らについて」はそうではない。Aメロ出だしの「赤い陽が僕を睨む様」というフレーズは詞も歌い方もフジファブリックを思わせる。冒頭から兆しを見せながら、サビで一気に平熱の現実を超えるマジックリアリズムが発動する。圧縮され、断片的にしか語られない壮大な物語が想像力を強く刺激する。クボはペコやスマイルを我が身に依りつかせて語るが、いつしか彼らを呑みこんで「僕ら」として語り始める。ペコとスマイルはどこか溶け合っている。クボは彼らを呑みこむ。そのクボは自身がヒーローへと変貌を遂げつつも、ヒーローの再来を待ちわびている。語り手の声と、溶け残った声が同時に響いている。不思議だ。どこか浮遊感があるなかで「拍手のルーティン」というフレーズの殺傷力がメレンゲの本性をむき出しにしている。

 「僕らについて」はふたつのバージョンが存在する。『初恋サンセット』から再び益子樹を迎えた「”あのヒーローと” 僕らについて」=エレクトロバージョン、そしてコーラスにBiS、アレンジにBiSのプロデュースチームを迎えた「”あの夜明け前の” 僕らについて」=バンドバージョンだ。前者についてはもういいだろう。後者はBiSというイロモノアイドルのインパクトが一見強いが、聴けば色眼鏡はすぐに剥がれ落ちてしまう。もともとどこかチープなシンセのストリングスを好むバンドだが、このシリアスなシンセストリングスの使い方はいつもとは少し違って新鮮だ。BiSのコーラスは細く透き通ってかわいらしいが、それゆえにどこか無表情で嘘臭い。その嘘臭さがいい。それらに支えられたボーカルは冷徹な計算を軽く超えて感情を孕む。「いざエモーショナル」、まさに。

 エレクトロサウンドと斜に構えた歌詞と蒼い声の奇跡的な三位一体。それがあっさりと成し遂げられる。たとえスーパーカーが解散しなかったとしても、ここまで美しい形まで高められていただろうか。疑わしく思う。メレンゲは見えない怪物だ。その片鱗が見えただろうか。不可視化の呪いは今、ほころび始めている。

 そしてこのシングルには初回盤が存在する。パッケージは驚くべきことにDVDの方に主眼を置いた形になっており、渋公ライブを形にして世に出すということを明らかに意識して、非常に丁寧に作られている。単なる付属DVDではない。内容はシングルの制約を受けているものの、7曲が収められ、ディレクターはフジファブリックの数々の映像を手掛けた須藤中也、先の4月に出た2006年の渋公ライブにどこか似た世界観で、非常にクオリティの高い映像だ。メレンゲの映像でこのクオリティは今までなかったのではないか。そしてまた、このクオリティで残すにふさわしいライブである。

 音をはずす場面も、歌詞を飛ばす場面もあるが、それすらも愛すべき点のように思えるから不思議だ。その一方で、クボの表情や挙動は頼りなく危うい。明らかに緊張しているし、べそもかいている。凄まじい覚悟とともにヒーローを引き受けてステージに立っている男のペルソナが剥げかける瞬間瞬間のリアル。ライブとその見えにくい個人的なドラマの二層構造がこのDVDにはある。これはダウンロードでも通常盤でもダメだ。初回盤しかない。でなければ損をする。しかしどうやら既に多くの人がそれに気づいているらしい。ツイッターに「品切れ」の文字が踊る。急げ、聴け、見よ。まだ間に合うが、いつ間に合わなくなるかは分からない。そしてそれはこれからいくらもしないうちのことだろう。

  1. 2014/05/31(土) 03:06:30|
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20140524


 思えば今月はあんまりフジファブリックのことを考えなかった。まったく考えなかった訳ではないが、ぶっちゃけロマンチックおじさんが手強すぎるのでロマンチックおじさんのことばっか考えていたせいでなんだか影が薄い。頭とノートの中には先生のことばがブルーブラックのインクとなってあふれるほど満ちている。これをずっと持っていくことは間違いなく大事なことだ。でも他にも大事なものはたくさんある。でも何かに手を伸ばすと何かを取りこぼす。大丈夫なのか。何かまた取りこぼしてはいないか? 大切な何かを。分からない。正確には分かりたくない。自分は後ろを見ながら前に進んでいけると思っていたが、いやはや新しく学ばないといけないことが多すぎる。ひと段落したら嫌でも戻る場所だろう。でもそれでは遅かったらどうする? だめだ、こればっかりは分からない。

 史料を探しに出歩いた帰りに、ふらっと近所の本屋に寄った。小さなチェーン店で、しばらく行かないうちに本の顔ぶれに随分品がなくなっていた。表紙にはどぎつい色とフォントが踊り、露骨に性的な絵が描かれている。他の本屋にはひっそりと置かれているものが、なぜかここだけ煮詰まっているようである。本は売れない。昔から品ぞろえはよくなかったが、ここまで売れていないんだな。なんだかいたたまれなくなって児童書コーナーに逃げ込んだ。やっぱり貧しい本棚だが、しかしまだよく知っている空気がある。馴れ親しんだお揃いの背表紙をみていると、安房直子が何冊かあった。

 一冊、二冊と目次を確認して、二冊目ですぐにお金を払って店を出た。久しぶりに読んだがやはりこれは忘れ難い。小さい頃、何の気なしに読んだささやかな話が、だが確かに心の深いところに根を下ろしてしまっている。大切な話はいくつかある。それらはどれも、大切ななにかを忘れまいとしつつ忘れていく、だが、最後にその記憶は再びよみがえり、そしてもう忘れられることはない。そういう話である。

 家に帰ってもう一度読み返し、やはり忘れようと思っても忘れられないものはあると思った。志村のこともそうかもしれない。そうだったらいいとは思うが、しかしそういう美しい物語に癒されて呆けるのは嫌だな。小生は「思い出にしない」なんていう狂気を孕んだ強さはやっぱり持ち合わせていない。思い出にしたくなくても勝手に思い出になっていくし、色あせていく。だから思い出せるときに思い出していくし、無理矢理掘り起こしていく。それくらいしかできない。


  1. 2014/05/24(土) 22:27:15|
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20140520

 全くもって忙しすぎる。授業以外の時間が全部バイトで埋まっていて、勉強は毎日楽しいが研究したり何か書き物する時間がないのである。時間が足りない。これは困った。かと言ってお金も足りない。お金を集めるのは苦手である。。これも困った。明日もロマンチックおじさんの授業で発表だが、必要な調べ物が出来ていないので静かに脂汗を流している。。オラに時間を分けてくれ。。。

 ここも色々書きたいことがあるんだけどな。ノートに書き留めた言葉がどんどん古びていく。書きたい。とりあえず今メレンゲがすげー楽しみである。えげつないDVDはもう届いているが、どうせ当分観る時間はないしな。。来週の発表が終われば少しは楽になるだろうか。ううむ。

 という近況報告である。一応生きている。






  1. 2014/05/21(水) 00:32:12|
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ロマンチックおじさんのこと

 小生の今の先生をロマンチックおじさんと言う。本人に言ったら確実にいじめられるのでこれは秘密のあだ名である。しかしなぜロマンチックおじさんなのか。いや、これが実に文章の上手い人なのである。とても豊かな文学的感性の持ち主で、先生の文章や研究はすべてそこに深く根ざしている。まあジブリが好きだったり、息子に買ってあげたファミコンのドラクエに自分がはまってしまい、3ヶ月廃人生活を送った人であると言った方が分かりやすいか。小生はもともとロマンチックおじさんの書く文章や問題意識が好きで、まあ遠い大学の先生だったからそれっきりだったのだが、いつの間にかこっちに引っ越してきていたので、これさいわいとラブレターを書き送って入れてもらったというわけである。ポエムを送ってから会いに行ったら、ラブレターに目をやりながらニコニコしていたので大変恥ずかしかった。だがなんか面白がっていたようである。

 しかし小生は魔法使いの弟子にでもなったような気持ちでいる。ロマンチックおじさんはぽつり、ぽつりと詩を読むように、呟くように話す。いくらか高くてちょっとかすれた、細い声でやや舌ったらずでもある。先生がちょうど10分遅れてやって来てハンドアウトを配り、時計を外し、「はじめます」と言った瞬間にもう、引きこまれてしまう。異端の学者が声ひとつで忘れ去られていた世界の扉を解き放っていく。もう一語一句たりとも聴き逃したくはない。当たり前だ。

 おじさんはシャイでどこか夢見がちな少年がそのまま真っ当に成長した感じの人である。学生をボコボコにすることもままあるので一部ではドSと恐れられているが、ちゃんと人を見て指導しているだけだ。ぶっちゃけ研究一筋の人で指導は期待しない方がいいだろうと思っていたが、とんでもない。指導の腕も確かだ。学問柄もあるんだろう。骨組を見透かすようにすべてを把握して、よいところは褒め、直すべきところは淡々と指摘する。この人に欠点をつつかれてもヘコまないのは、先生のまなざしがいつも温かいからだろうな。情けない優しさではない。これまで何かを守ったり手を引いてきただろう、しっかりした優しさである。多分先生は人の親として教壇に立っている。そんな研究者、今まで会ったことがなかった。助けが必要な人々に注ぐまなざしのあたたかさの奥には、「自分には手を差し伸べる義務がある」という強い自覚がある。小生はここで初めて、目指すべき「大人」を見つけたのかもしれない。どちらかと言えば小柄で、至って平凡な外見のおじさんである。しかしその中には途方もなく豊かなものが詰まっている。通い出してしばらく、小生にはロマンチックおじさんが歩く宝箱に見えた。マジである。

 ロマンチックおじさんは恥ずかしがり屋のくせにお茶目な人でもある。この間は何かの拍子に河童の話になったところ、急に目を輝かせて中国人留学生に「河童はいるんだよ! ウソじゃないよ、ホントだからな!」と言いだして信じさせようとしていた。バレバレである。また別の日、14時くらいに用があって先輩と研究室に言ったら、めっちゃキャラメルをもぐもぐしているところで、「おやつタイムに遭遇してしまった・・・!」と衝撃で立ち尽くしていたらいたずらっぽい笑顔でめっちゃピースしてきたこともある。フリーダム! いや、マジでクソカッコいい先生である。

 今日は小生が発表をした。今までと違う学科にもぐり込んだので勝手が分からず、向こうの人にとっては当たり前ではない前提を置いて話を進めてしまって、他の学生はドン引いていたが、小生はそもそもロマンチックおじさんのためだけに発表していたので、言われて初めて気付いたがそうかとしか思わなかった。クソ野郎である。直すべきところを指摘した後、先生はだが着眼点はいい、ぼくにはとても分かりやすい発表でした、と言った。びっくりした。小生は緊張するとどもってロクに日本語がしゃべれない。今までそんなことを言った人は一人もいなかった。当たり前である。なのになんでだ。それから話は進み、課題がいくつか出されたあたりで、誰かのコメントに先生はふっと笑顔になってこう言った。

「そう、それが××学の面白いところなんだよね。ちいさな、ちいさなところに目を留めて、なぜと思う、それを知りたいと思って掬いあげていく。そして、そのちいさなものから大きなものが掘り起こされていく。それが××学です。それをきみにも知ってもらいたいな」

本当に素敵な笑顔だった。先生は本当に心からこの学問が好きで、大切に、誇りに思っていて、手の中の宝石をそっと見せてくれるように小生にそう言ってくれたのだ。大切にしているものを見せてくれた。それがとても嬉しかった。そう、何かを知る、学ぶというのはとても楽しい。小生は今、間違いなく幸福な時間の中にある。先生が分け与えてくれるものを持てるだけ持って行って、いつかは他の誰かに分け与えたい。





  1. 2014/05/15(木) 01:06:15|
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BOCチャマとフジ金澤先生の共通点に関するちょっとした考察


 フロントマンとは別にMCを積極的かつ円滑に進める役割を担うのは、なんでか知らないがどのバンドもおおむねベーシストが多い。だがフジファブリックに関してはベーシストが油断するとアンプと同化し出す人なのでまあ別にそういうやつがいる訳である。その人こそ、我らがキーボーディスト金澤ダイスケである。でまあ、FAB STEPツアー初日の金沢で小生は何故か調子こき出した金澤先生が延々と自分のケツを自画自賛するのを聴いていた。うむまあ確かにいいケツかもしれん。だが小生は別におっさんのケツを眺めて興奮するような趣味はない。アゴマジ何ほざいてんだよ。そう思っていたが、その時何かが降りてきた。

 そういやチャマもだな。

 知らない人のために言っておくと、BOCのベーシストであるチャマは、レコーディングの時なんかにしばしば煮詰まったメンバーの前でケツを出す訳である。そうするとメンバーは「お前いいケツしてんな!」とか言ってパーン叩いたりする訳である。笑う訳である。その場がなごむ訳である。完全なる小中学生のノリである。

 で、そこからチャマと金澤先生の共通点について考えてみたところ、他にもあった。書き出してみよう。


・いいケツをしている。

これについては既に述べた。ちなみに両者とも自他ともに認めている感じである。小生、世の中の事情に疎いのでよく分からないがケツって重要なポイントなんだろうか。まあでもいいケツみたら確かにパーン叩きたくなるな。

・よくしゃべってうぜえ。

つまりは自己主張が強い。まあボーカルは疲れるからあんまりしゃべりたくない、あるいはMCが迷子になりがち等の理由で渡りに船と思っているのでギブアンドテイクである。

・女子力が高い。

ぶっちゃけ両者ともファッションセンスはシャレオツを通り越して奇抜というかまさにファッションモンスターだが見た目に気を使うところと、ともに実家が飲食店で料理の腕に自信を持っている点も共通している。というか容姿は女の子みたいである。おっさんのくせにな! あと割と他のメンバーに比べて容姿の変化が大きいのではないか。

・ステージ下手側にいる。

すげーどうでもいいことだが、バンド内でMC担当のやつって大体下手にいないか。チャマと金澤先生もそうだが、ツヨンゲ、キセル弟、ふくろうずのベース。。。まあこれは反証も腐るほどあるだろうからどうでもいいか。


 とまあざっと以上である。他にも何かあったような気がするが忘れた。要するに、バンド内にこういうポジションは必要だよなという話である。オチはない。

  1. 2014/05/03(土) 00:22:04|
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