inkblot

Chewing Gum

「このチクルの膜の内側にさ、ひとつの世界があるとしたら不思議で悲しいよね。そんな話をこの間読んだんだ」

 ガムの膜をつまらなそうにふくらませている彼を見ながら、僕は口を動かした。僕は上手く喋れるわけじゃないからほんとはあまり喋るのが好きじゃない。でも、彼はほとんど喋らないから、必然的に僕ばかりしゃべっていることになる。

「くだらないよ」

 ふくらんだガムを破裂させて、もぐもぐと彼は言った。

「一瞬のうちに生まれて、一瞬のうちに消える世界なんて存在しないのと同じさ。くだらないよ、そんなの。ガムの中の世界の何千倍も何万倍も存在していられる俺だって、己という現存在の意義を見出せないっていうのに……」

 彼はひどく厭世的な顔をして背中を丸めた。

「そんなことないよ。存在理由のないものなんて存在しないんだ。絶対にね。
風船ガムの世界だって空しくなんかないさ。万物は今この瞬間に物凄い輝度の光を放っている。
素晴らしいものなんだ。それに言っとくと、じつは僕はガムをふくらませるのが得意なんだよ。前なんか、一週間もふくらませ続けたことだってあるんだからね」

 そう言って僕は口の中のガムをふくらませた。本当はウソだけど、そんなことは構わない。ピンク色の樹脂の膜が大きくふくらんでいく。大きさに比例して膜も透明度を増す。とうとう視界いっぱいにふくらみきった時、ガムが突然破裂した。でもその後、必死になって顔中に張りついたガムをどうにかしようとしている僕の耳には彼のおかしそうに笑う楽しそうな声が響いていたんだ。

                                                         END
  1. 2009/04/24(金) 22:31:44|
  2. etude
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Lao Lao Ting

勞勞亭



 こんな夢を見た。
気付くと私は真つ暗闇に立つてゐた。そして、何故だか判らぬが途方に暮れてゐた。
然(さ)て、私は一体如何したら良いのだらう? 此処が外なのは何とは無しに判つたが。
不意に前方に明かりが燈つた。亭(やかた)であつた。ぼうつと暗闇に唐風の白壁の輪郭が浮かび上がつてゐた。私はホツとして草に降りた夜露にズボンが濡れるのに構ひもせずに明かりに向かつて走つた。
 無我夢中で戸を開けて這入つた裡の景色に私は暫し立ち尽くした。其処は人倫通はぬ山奥の谷から沸き出づる川のほとりであつた。其の向かう岸の青青(あをあを)と苔生(む)した岩々の上に、唐朝の白い着物を着た十(とお)ばかりの少年(せうねん)が、丹塗りの盃(さかづき)を手に、頬にほんのりと赤みを差して、微酔(ほろゑ)ひの様子でゐたのであつた。真に愛(うつく)しく清らなる情景であつた。

「誰(だい)ね?」

 少年の眼が漸く私を捉へたやうであつた。

「貴方(わい)の、天下で最も人の心ば悲します処、旅人ば送る此処、勞勞亭さんなして来よらしたか良う覚へてんばつてん、そがんことはだうでん良か。此方へ(こけ)来てくれんね」

 さう言ひながら、少年は川を渡つて、此方(こつち)の岩へよぢ登つた。勞勞亭(らうらうてい)。支那の南京にあつたと云ふ旧蹟のことであらうか? 私は詩仙・李白の彼の地に就いての詩を幾つか知つてゐるに過ぎなかつた。

「おいはキクばい。おつと、江戸弁ばしやべらんと。おいは長崎ん生まれなんたい」

 頬のふつくりとした少年は、天真爛漫其の物の様子(やうす)で私を視て云つた。

「そいで、小父(おい)さんはなして死んだと?」

 其の言葉に私は不思議と衝撃を受けなかつた。相変わらずお国言葉は直つていないぢやないか、と思ひながら平然と答へてゐたのだ。

「仕事帰りに家の近くの道を歩いてゐたら、心臓が急に痛くなつたのだ。私はそんなに根を詰めてゐたかしら?」

 訊いておいて少年は私の答へに然して興味を持たなかつたやうだつた。

「小父(おい)さんは此処のどがん処か知つとつと?」

 然ては標準語を知らないのだなと私は思つた。

「いいや」

 少年は刹那、丸(まる)で何かに耐へるやうに眼を一寸(ちよつと)大きくした。

「死者ば次の世に送るとがおいの役目ばい」

 川の流れを盃で汲み、至る所に繁つてゐる菊の花を摘んで浮かべ乍ら、少年は続けた。

「菊より滴る露は此れ即ち霊酒なり。其の味ひ天の甘露の如くにして、恰も百味の珍に勝れり」

  少年は私に盃を差し出した。

「此(こ)ん流れは菊の葉に置く露が滴り流れて不老不死の霊薬となつとんのばい。気休めでしかんばつてん、次の命が長く続くごと、今はただ飲んでくれんね」

 少年は優しく微笑むと、懐から笛を取り出して、吹き始めた。楽に明るくない私には一体何と云ふ曲であるのかは皆目判らなかつたが、其れは明るく、無邪気で喜ばしい曲であつた。菊水を口に含むと、其れは確かに天上の味(あぢ)はひであつた。次の世が何(ど)のやうなものになるかは判らぬが、私は実に穏やかな心持ちで其れを迎へやうとしてゐた。



                                                      了
  1. 2009/04/16(木) 22:40:45|
  2. Strange Javas
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Under the grace of Jupiter

木星の王

 夜、眠れずにランプをともして、あかがね色の表紙の本を読んでいた僕に、クローゼットから現れた男はそう名乗った。クローゼットから流れ出す埃っぽい褐色の大気のせいで、早くも僕の部屋の中は視界が悪くなっている。

「ほんとに木星から来たの?」

 僕はおそるおそる彼に話しかけた。砂色の外套をまとった丈高い彼の姿は、なるほど偉大に見えた。それを見て、今の質問はちょっと間抜けだったかもしれないなと僕は思った。

「ああ。三つの褐色の砂漠を越えて」

 砂だらけの黒い髪に紛れた細かい粒子が、ランプの明かりを受けて瞬いている。

「僕は知らなかったよ。学校では、あの巨大な惑星はほとんどが水素やヘリウム、メタンなんかのガスで出来てるんだって習ったから」

「木星は広大な砂漠の世界なんだ。少しずつ色の異なる重たい砂が常に対流を起こしていて、砂を舞い上げる強い風と赤褐色の厚い大気のせいで、四六時中視界は褐色に染まっている。そこを私は生まれた時から歩いているんだ。衝突して、半ば砂に埋もれかかった星を巡ったりもするよ」

「なんで、ずっと歩き続けてるの?」

「多分、私はあの星で、あの星は私だからさ。死ぬまでずっと、太陽の周りを歩き続けるよ。吹きつけてくる砂嵐のせいで、目も随分悪くなったけど、まだ変わっていく砂漠の色くらいはよく分かるからね」

 そう言う彼の蒼い目は澄んでいて、吸い込まれそうなほど美しかった。

「あと僕は本にこんなことが書いてあるのを読んだよ。木星は大昔に、この星に水を持った彗星をたくさん降らせてこの星を水で満たしたんだって。そして今は外から来た彗星がこの星に降り注ぐのを、その大きな体を盾にして防いでいるんだって。それはウソじゃないよね?」

 彼はじっと僕を見た。それは砂漠に恵みの雨が降るのによく似ていた。

「本当さ。私はいつも銀河の外縁から君達のことを考えているよ。だから今日は安心してお休み」

 彼がそう言い終わるか終わらないかのうちに、部屋の景色はだんだんと遠ざかっていくように感じた。



「アート、起きなさい! 朝食が冷めますよ」

 下の階から聞こえてくる母さんの声で目を覚ますと、僕はベッドの中にいた。ずいぶん前にわざわざ起こしに来てくれたのか、カーテンは開かれていて、顔に太陽の光が当たっていた。おかしいな。さっきまでのことはほんとに夢だったのだろうかと思いながら、ベッドから這い出ると、床には確かにうっすらと輝く砂が積もっていた。





                                                                         END
  1. 2009/04/12(日) 23:00:28|
  2. etude
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The Work


 こんな夢を見た。
私は冥い部屋に立つてゐた。さうして、隣の青年と共に床の中心に埋まつた、大(おほ)きなヴァルヴを視てゐる。其の内、青年はヴァルヴから眼を離して私に向き直つた。

「詰まり、斯ういふ訳です。貴方は此の、」

 其処で青年はもう一度ヴァルヴに眼を落とした。ヴァルヴの下から藍色の光が幾分か零れて、狭い部屋と我々の顔を照らしてゐる。

「ヴァルヴから光の差さぬブルーブラックの海へ潜つて、息継ぎもせずに果て知れずルビイの首飾りを探すのです。此奴(こいつ)が貴方の仕事です」

 青年は再び私に眼を向けた。へんに赤茶けた髪をした、色白の青年である。多分育ちが良ひのだらう、蒼い縦縞のシヤツをきちんを着てゐる。如何にも健康さうで好ましく見へた。若し明るい陽の下で出遭つてゐたなら、もつと好ましく見へたらう。

「其奴(そいつ)は随分と粗悪過ぎるシナリオぢやあないか」

 青年は笑つて、私から顔を背けて床のヴァルヴを撫でた。黝(あをぐろ)いヴァルヴの表面(へうめん)には伽藍鳥(ペリカン)の母子(おやこ)が浮彫になつてゐた。

「何、他のなんかも貴方のと然(さ)して変はりは有りませんよ」

「君は復(また)さういふことを云ふ。かう見へても海育ちだから泳げはするが、私は潜るのが苦手なんだ」

 青年は私を視て、憐れむやうに笑(ゑ)みを浮かべた。

「僕の仕事は何だと思ひますか?」

「さあ、ちつとも判らない」

 さう答へると、彼の眼は私の右手にじつと注がれた。

「其れを一寸(ちよつと)貸して呉れませんか」

 青年は私の手に有るものを指差して云つた。さうだつた。さう云へば、私は最前から手に花束を提げてゐたのだつた。
 兎も角、私は其れを青年に差し出した。彼は其れに手を伸ばした。彼が其れを掴んだ途端。其の途端、大輪の百合の花は粒子の縛(いまし)めを解かれて、真つ白な灰に為つて散つた。

「僕の仕事は斯ういふことですよ。花束を恋人に手渡す、たつた其れだけのことが何遍やつても出来ないのです」

 手のひらに僅かばかり残つた灰を弄びながら、青年は悲しげな微笑を湛へて其れに眼を遣つた。

「さあ、時間です。仕事を始めませう」

 さう云つた青年の手の先には、ヴァルヴの取り払はれた底知れぬ冥い海が有つた。





                                                                                                                     了
  1. 2009/04/11(土) 18:19:37|
  2. Strange Javas
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No one said "Rats," though Clovis's lips moved.

 PENGUIN BOOKSから出ている"The Complete Saki"(懐に優しいペーパーバックの全集)を読んでいるのだけど、遅々としてなかなか進まない。何分、英語は苦手なので。

 イギリスの小説家・サキ(本名:Hector Hugh Munro)は日本でいう明治時代の人で、ブラック・ユーモアに富んでいて、上流階級の話を実に冷笑的に書く。ショートショートの名手として外国ではO・ヘンリーと並び称されているのに、なぜか日本での知名度は低い。

 別に知られていない方がひねくれ者の私には嬉しいが、困ったことに知名度に比例して訳書も少ない。岩波文庫や新潮文庫、ちくま文庫なんかから傑作選が少し出ているくらいで、それも薄くて収録されている話は大半が重複している。訳の違いを楽しむ……などという余裕は私にはない。なにせ、英語が苦手なので。

 とはいえ、訳書の中では岩波の『サキ傑作集』(河田智雄訳)がずば抜けて良い。新潮の中村訳はまだしも、ちくまの中西訳はもたもたとリズムが崩れてしまっていて、読んでいて悲しくなった。

 ただ、河田訳は絶版になっていて手に入らないのが腹立たしい。この訳が書店で売っていないなんて! 河田訳で全集が出たらいいのに。どうにも、英語が苦手なので。
  1. 2009/04/07(火) 15:36:46|
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