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20170519


 昨日の夢にクボンゲが出てきて俄然心配になった。6月23日にワンマンあるよね? 大丈夫? ちゃんと練習してる? 打ち合わせとかしてる? おれ、自分と犬の世話が大変なのでフグの世話まではできないぞ、ツヨンゲちゃんとお世話してください。

 久しぶりに聴いていて、メレンゲってコミュ障ロックだよなと思った。「きらめく世界」とか、相手の目を見られていない気がするんだよな。「大丈夫、キミは溶け合ってボクになる」なんて言うけども、目を見て言ってないんじゃないかと思う。わりとそういうとこが好きなのかもしれない。別にそれでよしとしている訳ではなくて、克服しようと試みてはいるけども、結局めっちゃ目をそらしているようなとこあるよな。コミュ障はいいと思うんですが、ワンマンの告知とかライブ情報とか更新しろYO!! まあ全然ブログ書いてない自分がいえることでもないですが。

 ツイッターでハッシュタグつけてリクエスト曲をツイートしてねってやつ、一曲だけか。。。と思ってまったく絞り込めない。せめて三曲くらいにできないのか。めちゃめちゃたくさんアカウント作りまくってリクエストしたいな。手を変え品を変え「July」を。。。やらないけど。しかしせっかくリクエストするならどうせやるだろみたいな曲はなるたけ排除したい。。まあ「July」は絶対やらないだろうって曲になるが。「CAMPFIRE」聴きたい。

 

  1. 2017/05/19(金) 16:12:00|
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落ちた花を拾って並べるように

 つばきの一色が亡くなった。自分はライブに欠かさず足を運んだりするような熱心なファンではなかったので、何か言うのもおこがましいのだが、単純に喪失感がある。

 脳腫瘍による闘病から戻ってきた彼には、目を逸らし得ないほど明確に病の爪痕が刻み込まれていた。余裕なんか全然ないし全然カッコよくない。でも全力で食らいついている。そこに圧倒されていた。そういった部分と演奏に対する評価はまた別だが。そういった身体的な制約とは離れたところで曲は輝いていた。

 なんとなく、彼は足掻きながらまだまだ声をあげながら生きてゆくのだと信じ切っていた。去年、そして今年もまた脳腫瘍がいとしい天才をわれわれから奪っていく。脳腫瘍! 脳腫瘍という病のむごたらしさには、もう何と言っていいのかわからない。芸術家を芸術家たらしめている大切な部分を食い荒らして、あまつさえ命まで奪うのか。じわじわと、急速に、人として、生き物として壊れてゆく。穏やかな最期だったと漏れ聞くのがせめてもの心の慰めだ。

 この穴の開いたような気持ちを忘れた時のために、落ちた花を拾って並べるように、ほんの少しだけ書きとめておく。


  1. 2017/05/16(火) 03:22:50|
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20161224

論文が全然進まねえ。年内最後だったので大学図書館に行ったらOPACが使えず、ほしい雑誌は書庫が閉まって取り出せなかった。おれの論文は終わった。。。それ以外にもいろいろ終わっている。メンタル的にはまだこれからだが。そんなこんなで今年ここに載せるものがない。去年のやつは驚くことにまだ打ち直しが終わっていない。なんでこんなにしんどいのか。いや、あれはわりとしんどいか。何を書いたのかというと、折口の『死者の書』である。どうしてもモノ語りをやる必要があると思った。他者から死者を語るのではなく、死者自身が語り手に依りつき、語る。うまくやれたのかはまだ分からない。
今年もあれこれ考えてはいるのだが、なぜか論文の傍ら手が自動筆記しているのはちょっと違うものである。やっぱりよくわからない。ただ、動機はいつもなにか欠けているものを取り戻したいということにかえっていく。
しかし今年の12月24日のトピックといえば、やはりクボンゲの「クリスマスタイム」だろう。クリスマスソングに欠かせないものは二つあると思っている。猛烈な寒さ、さみしさと否応なしに包み込むような温かさだ。さみしさのないクリスマスソングは聴けない。いいクリスマスソングをどうもありがとう。でも最近、今まで後生大事に抱えてきたさみしさと、人としてあっていいはずのささやかな幸福の折り合いがうまくつかない。やっぱり小生のクリスマスはしばらくそんなハッピーにはならなそうである。
ホント七年とかなんなんだよ、意味わかんねえよ。やはりこの日はアポリアとして、溶け残った飴玉みたいに心の底に転がっている。
ところで三連休だからってそこかしこでいちゃついてやがるアベックども、俺たちの志村の呪いによって、今後地味な不幸に見舞われるだろうから覚悟しておけ。
しかし志村のそういうベクトルのポテンシャル高いところがホントに最高である。
  1. 2016/12/24(土) 23:15:11|
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20160624


 このあいだのライブからずっと、ペリドッツを聞いている。高音はたとえようもなく美しいが、低音もまた嫌味のない自然な色気があふれ出ている。大人だ。歌詞も現実の世界に鋭い爪を立てて表皮を切り裂き、本質を抉り出す。メレンゲはペリドッツと比べると、どうしようもなく子どもだ。もう子どもではいられないが、でも大人にもなり切れていない。宙に浮いている。これは彼らの問題だから、小生は何も言えない。どうせ年取っていくんなら、かっこよく取りてえよね。年相応になれないんじゃないかというおそれ。それはおれにもある。

最近のメレンゲ/クボンゲは正直ベストとはいいがたいと思う。観るたびより高みへと昇りつめていた時を知っているから、そうじゃないだろうと思ってしまう。もっとやれるでしょう。観たいのは、聴きたいのはあれだ。


 なんだか何がしたいんだかわからなくなってぼんやり過ごしていた。何か書く以外には何もできない小生である。でも何が書きたかったんだっけ? それがわからない、小説を読んだ。音楽にまつわる小説だ。これだと思った。この熱い思いを書きたい。音楽によってのみ与えられる、圧倒的な力。なにか分厚い壁を何枚も何枚も突き抜け、貫いて、目を潰すような輝きを烈しく放ちながら天へ届くようなもの。それを書きたい。いやまあ音楽だけじゃないけどね。書ききってしまえばこっちのものである。やはり今でも、一生ペンと紙を握りしめていたい。この胸にある火をつねに掻き立て、ペンに注ぎ込み、刻み付けたい。


 ああ、今日は24日だ。志村のことを考える日もある。考えない日もある。だが、その存在はもうとっくにこの自分の生活の中に、人生のなかに基礎づけられているように思う。

誰かを忘れた世界は単調に続いていく。そのずるずるとした連なりに、ひとつ、ひとつ、楔を打ち込んでゆく。静かにしめやかに死したるものを悼むということはしない。烈しく、何度も何度も叩き起こし、思い起こさせよう。それがこの小生のたましずめだ。

  1. 2016/06/24(金) 23:16:25|
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20160619クボノ宵


 メレンゲ新曲のことも書いたりするので、いやな人は見ないでほしい。時間がないので、久しぶりに殴り書きしようと思う。

 今ユーチューブでペリドッツを検索したら、『スティーブン・ユニバース』の動画ばかり出てきてなんかいらっとした。まあそれはいいが行ってきた。ペリドッツ、それほど頻繁にライブを観たりCDを買ったりはできていないのだが、はじめて観た時に衝撃を受けたアーティストである。ペリドッツを呼ぶなんて、クボンゲホント最高だ。もう対バンがペリドッツというだけで、Queの隣にあるファーストキッチンのポテトをいくらでもクボンゲに買ってやりたくなるな。餌  今回はギタリスト兼プロデューサーの久保田光太郎氏と二人ペリドッツである。ペリドッツはもともとタカハシコウキのソロプロジェクトだったこともあって、演奏形態が複雑多岐にわたり、タカハシも呼称が把握できていないくらい色々呼び名があるので、正しくは何なのだろう。わかんね。弦ペリだとか全ペリだとかドンペリだとかよくわかんね。たいこあたりが喜々として考えてるに違いない。あ、ちなみにみなさんご存じだろうが、ドラマーはシロップ16グラムの中畑大樹である。シロップファンはペリドッツも聴こうな。

 今日も本当にペリドッツはすばらしかった。清澄かつ強度の高い声とメロディ。鉱石のような美しさ。音程の安定したハイトーンボイスが脳天を突き抜けて天上へ昇りつめてゆく。なんというか、畏怖を感じるような美しさがそこにある。どの曲もすべてよかった。「Nothing is coming」、「急に石が飛んできて/Rhapsody Falls/罪」あたりが今日は妙に心に残った。贅沢だ。MCはやはりゆるいが。持っていないCD買ってライブももっと行こうと思った。みんなもペリドッツ聴けよな! 

 そしてみなさんお待ちかねのフグンゲと皆川神である。フグンゲは「ペリドッツのMCで客が沸いてた」としょっぱなから不満げである。みみっちいな! 今月のクボノ宵、ゲストがペリドッツで鍵盤が皆川神、おまけに新曲もやるとか期待しかできないじゃねーかとわくわくしていたが、冷静になって考えてみるとペリドッツにびびったクボンゲが飛び道具を用意しまくったというだけなのでは。。。と思ったが忘れることにした。梅雨だから一曲目は「二つの雨」。その後「フクロウの恋」「声」「水槽」「絵本」と久しぶりな曲が多かった。先月は珍しく「うつし絵」をやったのだが、練習不足で散々な出来で悲しかった。今回はどれもまあまあなクオリティ。あと鍵盤が神。どうでもいいが、皆川神って見た目は漫画みたいだが、声かっこいいよな。今回は稲垣潤一の「1969の片想い」をカバーしたのだが、フグンゲ先生、やる前に「歌えるかな?」と訊いて「知らねーよ」と即答されていた。最近鍵盤の皆さんがフグンゲ相手に当たりが強いのはいいことだと思う。「声」で歌詞を間違え、「ばれないように歌ってほしかった」と膨らんでいた。クズである。音程は安定しないが、クズっぷりは盤石である。そしてフグっぽい。カバー曲の登場人物はたぶんクボンゲと同年代なんだろうが、クボンゲが歌うとなんか中高生の歌みたいである。謎である。

 そして新曲は「あいのうた」。表記は知らない。「最近お前らもオレの天才ぶりを疑ってるんじゃないかと思うから、ここらで見返しとく」みたいなことを言い出す。「ちょっと前に作った曲なんだけど。。。ボクには子どもはいないんだけど、最近まわりで結構子どもが生まれたりしてて、、、子どもがいるってどんな感じなのかなって思って作り始めて。。でも「この歌はこのことを言ってる」って決めつけるのはボクは好きじゃないから、そこはあいまいにして、、恋愛ともとれるようにして。。。笑 そんな感じで作ったまま置いてた曲です」と言ってはじめる。サビは「奇跡じゃなくて偶然でも たとえキミが悪い人だったとしても きっとキミが好きさ」みたいな感じだったと思う。クボンゲはクズだし薄情そうなんだけど、でもこういうじつに愛情ぶかい詞を書くんだなあ。まあ書き手とテクストはイコールではないから当たり前なのだが、ふとにじむ情の深さが好きだ。「オレはどうとでも取れるのが好き」と言っていたが、個人的に子どもへの歌という設定が一番ぐっとくるので、親子の歌だと思うことにする。しかし子持ちファンの心わしづかみだな! しっとりしたいい曲だった。

その後もフグンゲは膨らみながら暴言を吐きまくり、Tシャツのタグが後から届いたのでアマゾンで4800円のミシンを買って自分で縫ったという驚愕のエピソードを明かしたりしていた。あいつにそんなめんどくさいことする根気があったのかよ。。。でもその暇あったら練習しろYO! あとクボンゲというあだ名について、不満そうに「最初志村さんからそう呼ばれて、嫌だったんです、なんか馬鹿にされてるみたいで。けど、なんか最近(※たぶん最近ではない)お客さんからも呼ばれるようになって。。。タグもそれをもじってつけてみました。。。もっと自分を肯定していこうと思って。。。」と語っていた。嫌いだったあだ名もあいつがくれたものだから、気づいたら知らないうちに宝物に変わっていたのかもしれない。


  1. 2016/06/20(月) 03:15:14|
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