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眠りの森

 ロマンチックおじさんに3日くらいかけてくだらないメールを送ったら、10分後くらいにはもう返信が来ていた。短いメールである。なんだかよしよしされているような、最後に呟きに向かっていくような5行のメールである。最後の方に今、お盆までに出る書き下ろしの本を書いていること、寝てる暇もないとあった。死ぬほど忙しそうだが楽しんでいるのが伝わって来た。先生は心から面白いと思っていることについて話す時、ホントに楽しそうなのだ。でも寝ないで大丈夫だろうか。ロマンチックおじさんは手際のよい人である。その先生が「寝てる暇もない」というのだから、めちゃくちゃ忙しいに違いない。体調を崩したりしないだろうか。今までの無理がたたって体を壊したりしないだろうか。・・・ものすごく心配である。もう頑張りすぎてダメになるのはみたくない。そう考える時、先生の背中に何人かを重ね合わせている自分がいる。それでも先生は60まで生き延びてきた人なので、まあ余計なお世話かもしれないが。。。

 でも人は寝ないで生きられない。なんだか聴きたくなってフジファブリックの「セレナーデ」をかけながら、詩集を開いてぼんやりする。この曲は志村がくれたファンタジーだな。でもファンタジーだからウソっぱちだということではない。どこか鋭く真理を突いているような気がする。「消えても 元通りになるだけなんだよ」という一節、それを言い置いてどこかへ行ってしまった。都合のいい綺麗な嘘じゃないかと思ったこともあったが、でもやっぱり本当だな。うん、やっぱり本当だ。消えても確かに元通りになるのだ。しかし元通りというのは消える前の状態に戻るのではなく、生まれる前に戻るのである。だからほっとするような悲しいような、引き裂かれた気持ちになるのである。しょっちゅうは聴かない。大事に仕舞っておいて、たまに引っぱり出して聴く。この歌の主人公は抗いながらも、眠りの森へ迷い込んでいく。それでいい。人は眠らなくてはならない。

 睡眠というのは結局のところ、科学の分野ではなぜ眠る必要があるのか、決定的なことはまだよく分かっていないらしい。だが実に簡単な話だと思う。眠るのは、一生を区切るためだ。

 小生は徹夜が苦手だ。得意な人というのも少ないかもしれないが、とにかく苦手である。夜が終わって空が白んでくると、一日を終わらせることができなかった絶望感に襲われる。半日動き回っているだけでくたくたに疲れるのに、寝られないと一日が倍になるのだ。トールキンが語る神話の物語では、古代のエルフの消息について触れる時、しばしば「生に倦み疲れて」と出てくる。きっとエルフたちもこんな気持ちだったんだろう。

 昔テレビで「一生に一度も寝なかった男」というのを観たことを思い出す。うたた寝くらいはどうやらしていたようだが、とにかくその男の家にはベッドがなかった。それで90まで生きたらしい。それにしても、うたたねじゃ一日を区切ることはできない。その男の生涯は90年という、気の遠くなるほど長い一日だったのだろう。一生が途切れなく続く、長い長い一日だなんてぞっとする。そんなのは絶対に嫌だ。

 人は「自分は必ず死ぬ」ということを知りながら生きている。それは諸刃の剣で、死の絶望と終わりの救済を抱え込んでいるが、しかし一生が途切れなくだらだらと続いていったら、たぶん生きることに倦み果てるのではないか。人は世界を分節化して捉える。人の一生もまた、分節化されなければならない。繰り返し繰り返し、無数の一日を生きていく。短い生き死にを積み重ねて、やっと何か大きなかたちが顕われる。だから生者は、眠ってまだ目覚めなければならない。さあ、今日もあと少ししたら、あのなつかしい眠りの森へ。



  1. 2014/07/24(木) 22:44:15|
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20140524


 思えば今月はあんまりフジファブリックのことを考えなかった。まったく考えなかった訳ではないが、ぶっちゃけロマンチックおじさんが手強すぎるのでロマンチックおじさんのことばっか考えていたせいでなんだか影が薄い。頭とノートの中には先生のことばがブルーブラックのインクとなってあふれるほど満ちている。これをずっと持っていくことは間違いなく大事なことだ。でも他にも大事なものはたくさんある。でも何かに手を伸ばすと何かを取りこぼす。大丈夫なのか。何かまた取りこぼしてはいないか? 大切な何かを。分からない。正確には分かりたくない。自分は後ろを見ながら前に進んでいけると思っていたが、いやはや新しく学ばないといけないことが多すぎる。ひと段落したら嫌でも戻る場所だろう。でもそれでは遅かったらどうする? だめだ、こればっかりは分からない。

 史料を探しに出歩いた帰りに、ふらっと近所の本屋に寄った。小さなチェーン店で、しばらく行かないうちに本の顔ぶれに随分品がなくなっていた。表紙にはどぎつい色とフォントが踊り、露骨に性的な絵が描かれている。他の本屋にはひっそりと置かれているものが、なぜかここだけ煮詰まっているようである。本は売れない。昔から品ぞろえはよくなかったが、ここまで売れていないんだな。なんだかいたたまれなくなって児童書コーナーに逃げ込んだ。やっぱり貧しい本棚だが、しかしまだよく知っている空気がある。馴れ親しんだお揃いの背表紙をみていると、安房直子が何冊かあった。

 一冊、二冊と目次を確認して、二冊目ですぐにお金を払って店を出た。久しぶりに読んだがやはりこれは忘れ難い。小さい頃、何の気なしに読んだささやかな話が、だが確かに心の深いところに根を下ろしてしまっている。大切な話はいくつかある。それらはどれも、大切ななにかを忘れまいとしつつ忘れていく、だが、最後にその記憶は再びよみがえり、そしてもう忘れられることはない。そういう話である。

 家に帰ってもう一度読み返し、やはり忘れようと思っても忘れられないものはあると思った。志村のこともそうかもしれない。そうだったらいいとは思うが、しかしそういう美しい物語に癒されて呆けるのは嫌だな。小生は「思い出にしない」なんていう狂気を孕んだ強さはやっぱり持ち合わせていない。思い出にしたくなくても勝手に思い出になっていくし、色あせていく。だから思い出せるときに思い出していくし、無理矢理掘り起こしていく。それくらいしかできない。


  1. 2014/05/24(土) 22:27:15|
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ロマンチックおじさんのこと

 小生の今の先生をロマンチックおじさんと言う。本人に言ったら確実にいじめられるのでこれは秘密のあだ名である。しかしなぜロマンチックおじさんなのか。いや、これが実に文章の上手い人なのである。とても豊かな文学的感性の持ち主で、先生の文章や研究はすべてそこに深く根ざしている。まあジブリが好きだったり、息子に買ってあげたファミコンのドラクエに自分がはまってしまい、3ヶ月廃人生活を送った人であると言った方が分かりやすいか。小生はもともとロマンチックおじさんの書く文章や問題意識が好きで、まあ遠い大学の先生だったからそれっきりだったのだが、いつの間にかこっちに引っ越してきていたので、これさいわいとラブレターを書き送って入れてもらったというわけである。ポエムを送ってから会いに行ったら、ラブレターに目をやりながらニコニコしていたので大変恥ずかしかった。だがなんか面白がっていたようである。

 しかし小生は魔法使いの弟子にでもなったような気持ちでいる。ロマンチックおじさんはぽつり、ぽつりと詩を読むように、呟くように話す。いくらか高くてちょっとかすれた、細い声でやや舌ったらずでもある。先生がちょうど10分遅れてやって来てハンドアウトを配り、時計を外し、「はじめます」と言った瞬間にもう、引きこまれてしまう。異端の学者が声ひとつで忘れ去られていた世界の扉を解き放っていく。もう一語一句たりとも聴き逃したくはない。当たり前だ。

 おじさんはシャイでどこか夢見がちな少年がそのまま真っ当に成長した感じの人である。学生をボコボコにすることもままあるので一部ではドSと恐れられているが、ちゃんと人を見て指導しているだけだ。ぶっちゃけ研究一筋の人で指導は期待しない方がいいだろうと思っていたが、とんでもない。指導の腕も確かだ。学問柄もあるんだろう。骨組を見透かすようにすべてを把握して、よいところは褒め、直すべきところは淡々と指摘する。この人に欠点をつつかれてもヘコまないのは、先生のまなざしがいつも温かいからだろうな。情けない優しさではない。これまで何かを守ったり手を引いてきただろう、しっかりした優しさである。多分先生は人の親として教壇に立っている。そんな研究者、今まで会ったことがなかった。助けが必要な人々に注ぐまなざしのあたたかさの奥には、「自分には手を差し伸べる義務がある」という強い自覚がある。小生はここで初めて、目指すべき「大人」を見つけたのかもしれない。どちらかと言えば小柄で、至って平凡な外見のおじさんである。しかしその中には途方もなく豊かなものが詰まっている。通い出してしばらく、小生にはロマンチックおじさんが歩く宝箱に見えた。マジである。

 ロマンチックおじさんは恥ずかしがり屋のくせにお茶目な人でもある。この間は何かの拍子に河童の話になったところ、急に目を輝かせて中国人留学生に「河童はいるんだよ! ウソじゃないよ、ホントだからな!」と言いだして信じさせようとしていた。バレバレである。また別の日、14時くらいに用があって先輩と研究室に言ったら、めっちゃキャラメルをもぐもぐしているところで、「おやつタイムに遭遇してしまった・・・!」と衝撃で立ち尽くしていたらいたずらっぽい笑顔でめっちゃピースしてきたこともある。フリーダム! いや、マジでクソカッコいい先生である。

 今日は小生が発表をした。今までと違う学科にもぐり込んだので勝手が分からず、向こうの人にとっては当たり前ではない前提を置いて話を進めてしまって、他の学生はドン引いていたが、小生はそもそもロマンチックおじさんのためだけに発表していたので、言われて初めて気付いたがそうかとしか思わなかった。クソ野郎である。直すべきところを指摘した後、先生はだが着眼点はいい、ぼくにはとても分かりやすい発表でした、と言った。びっくりした。小生は緊張するとどもってロクに日本語がしゃべれない。今までそんなことを言った人は一人もいなかった。当たり前である。なのになんでだ。それから話は進み、課題がいくつか出されたあたりで、誰かのコメントに先生はふっと笑顔になってこう言った。

「そう、それが××学の面白いところなんだよね。ちいさな、ちいさなところに目を留めて、なぜと思う、それを知りたいと思って掬いあげていく。そして、そのちいさなものから大きなものが掘り起こされていく。それが××学です。それをきみにも知ってもらいたいな」

本当に素敵な笑顔だった。先生は本当に心からこの学問が好きで、大切に、誇りに思っていて、手の中の宝石をそっと見せてくれるように小生にそう言ってくれたのだ。大切にしているものを見せてくれた。それがとても嬉しかった。そう、何かを知る、学ぶというのはとても楽しい。小生は今、間違いなく幸福な時間の中にある。先生が分け与えてくれるものを持てるだけ持って行って、いつかは他の誰かに分け与えたい。





  1. 2014/05/15(木) 01:06:15|
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