inkblot

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

20161224

論文が全然進まねえ。年内最後だったので大学図書館に行ったらOPACが使えず、ほしい雑誌は書庫が閉まって取り出せなかった。おれの論文は終わった。。。それ以外にもいろいろ終わっている。メンタル的にはまだこれからだが。そんなこんなで今年ここに載せるものがない。去年のやつは驚くことにまだ打ち直しが終わっていない。なんでこんなにしんどいのか。いや、あれはわりとしんどいか。何を書いたのかというと、折口の『死者の書』である。どうしてもモノ語りをやる必要があると思った。他者から死者を語るのではなく、死者自身が語り手に依りつき、語る。うまくやれたのかはまだ分からない。
今年もあれこれ考えてはいるのだが、なぜか論文の傍ら手が自動筆記しているのはちょっと違うものである。やっぱりよくわからない。ただ、動機はいつもなにか欠けているものを取り戻したいということにかえっていく。
しかし今年の12月24日のトピックといえば、やはりクボンゲの「クリスマスタイム」だろう。クリスマスソングに欠かせないものは二つあると思っている。猛烈な寒さ、さみしさと否応なしに包み込むような温かさだ。さみしさのないクリスマスソングは聴けない。いいクリスマスソングをどうもありがとう。でも最近、今まで後生大事に抱えてきたさみしさと、人としてあっていいはずのささやかな幸福の折り合いがうまくつかない。やっぱり小生のクリスマスはしばらくそんなハッピーにはならなそうである。
ホント七年とかなんなんだよ、意味わかんねえよ。やはりこの日はアポリアとして、溶け残った飴玉みたいに心の底に転がっている。
ところで三連休だからってそこかしこでいちゃついてやがるアベックども、俺たちの志村の呪いによって、今後地味な不幸に見舞われるだろうから覚悟しておけ。
しかし志村のそういうベクトルのポテンシャル高いところがホントに最高である。
スポンサーサイト
  1. 2016/12/24(土) 23:15:11|
  2. 音楽
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

星が目を射て耳を射る


ある日、森で仕留めた勇壮な雄鹿(おじし)が星を吐き出した。
生きていた時の瞳の輝きをそっくりそのまま移したような。
眩い毛並みの白を、そっくりそのまま映したような。
舌から転がり出たそれを握りしめると、じんじんと熱い。

ニコデモは雄鹿の舌(サヨ)、肝(キモ)、心臓(マル)、膵臓(タチ)を取り。
雄鹿の舌、肝、心臓、膵臓を取り、十二の串を捧げて祈った。
神は贄を嘉納し給い。
清い風を北へと吹かせた。

ニコデモは残りを持ち帰り。
肉は干し、毛皮は鞣し、角と骨は削って杖にした。
そしてそれらを持ち。
星を袋でぶら下げて、北へと向かって旅立った。
彼はもう、置いて行かれないものを何も持っていなかったから。

森を抜け。
静寂(しじま)に白い灰の降る。
死の山を越えた。
灰は雪のように、しかし雪よりも柔らかく彼の足跡を消す。
この灰のように、死者も眠りにつくのだろう。

尾根を歩き、澤を伝った。
夜は火を熾して毛皮を纏い、休んだ。

数多の山々を超え。
或る山の頂に至ったのは夜に入る頃だった。
小さな焚き火を熾し。
最後の鹿肉と、澤の魚を火に掛ける。
湯が沸いて、草で作った茶になった。
少しずつそれをかじり出す。

慎ましい食事が半ば終わった時。
強い夜風が火を掻き消した。
胸元の星が強く輝き出す。

鹿の星は、強く強く輝いて。
袋を焼き切り、飛び去った。
そして空から星が降り。
そして空から星が降り。
星の雨が彼の心を畏れで満たし。
星が瞳(め)を射て、耳を射る。
星々は歌いながら、雨と降り。
ニコデモは手で目を覆い、絶叫した。
その声もまた歌になる。

彼の瞳には星が宿り。
彼の眼は盲いた。
彼の舌には星が焼き付き。
張り裂けるような声で歌いながら彷徨った。

斯くして彼はカウボーイとなった。



  1. 2016/11/29(火) 15:57:56|
  2. 短編
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

20160624


 このあいだのライブからずっと、ペリドッツを聞いている。高音はたとえようもなく美しいが、低音もまた嫌味のない自然な色気があふれ出ている。大人だ。歌詞も現実の世界に鋭い爪を立てて表皮を切り裂き、本質を抉り出す。メレンゲはペリドッツと比べると、どうしようもなく子どもだ。もう子どもではいられないが、でも大人にもなり切れていない。宙に浮いている。これは彼らの問題だから、小生は何も言えない。どうせ年取っていくんなら、かっこよく取りてえよね。年相応になれないんじゃないかというおそれ。それはおれにもある。

最近のメレンゲ/クボンゲは正直ベストとはいいがたいと思う。観るたびより高みへと昇りつめていた時を知っているから、そうじゃないだろうと思ってしまう。もっとやれるでしょう。観たいのは、聴きたいのはあれだ。


 なんだか何がしたいんだかわからなくなってぼんやり過ごしていた。何か書く以外には何もできない小生である。でも何が書きたかったんだっけ? それがわからない、小説を読んだ。音楽にまつわる小説だ。これだと思った。この熱い思いを書きたい。音楽によってのみ与えられる、圧倒的な力。なにか分厚い壁を何枚も何枚も突き抜け、貫いて、目を潰すような輝きを烈しく放ちながら天へ届くようなもの。それを書きたい。いやまあ音楽だけじゃないけどね。書ききってしまえばこっちのものである。やはり今でも、一生ペンと紙を握りしめていたい。この胸にある火をつねに掻き立て、ペンに注ぎ込み、刻み付けたい。


 ああ、今日は24日だ。志村のことを考える日もある。考えない日もある。だが、その存在はもうとっくにこの自分の生活の中に、人生のなかに基礎づけられているように思う。

誰かを忘れた世界は単調に続いていく。そのずるずるとした連なりに、ひとつ、ひとつ、楔を打ち込んでゆく。静かにしめやかに死したるものを悼むということはしない。烈しく、何度も何度も叩き起こし、思い起こさせよう。それがこの小生のたましずめだ。

  1. 2016/06/24(金) 23:16:25|
  2. 音楽
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

20160619クボノ宵


 メレンゲ新曲のことも書いたりするので、いやな人は見ないでほしい。時間がないので、久しぶりに殴り書きしようと思う。

 今ユーチューブでペリドッツを検索したら、『スティーブン・ユニバース』の動画ばかり出てきてなんかいらっとした。まあそれはいいが行ってきた。ペリドッツ、それほど頻繁にライブを観たりCDを買ったりはできていないのだが、はじめて観た時に衝撃を受けたアーティストである。ペリドッツを呼ぶなんて、クボンゲホント最高だ。もう対バンがペリドッツというだけで、Queの隣にあるファーストキッチンのポテトをいくらでもクボンゲに買ってやりたくなるな。餌  今回はギタリスト兼プロデューサーの久保田光太郎氏と二人ペリドッツである。ペリドッツはもともとタカハシコウキのソロプロジェクトだったこともあって、演奏形態が複雑多岐にわたり、タカハシも呼称が把握できていないくらい色々呼び名があるので、正しくは何なのだろう。わかんね。弦ペリだとか全ペリだとかドンペリだとかよくわかんね。たいこあたりが喜々として考えてるに違いない。あ、ちなみにみなさんご存じだろうが、ドラマーはシロップ16グラムの中畑大樹である。シロップファンはペリドッツも聴こうな。

 今日も本当にペリドッツはすばらしかった。清澄かつ強度の高い声とメロディ。鉱石のような美しさ。音程の安定したハイトーンボイスが脳天を突き抜けて天上へ昇りつめてゆく。なんというか、畏怖を感じるような美しさがそこにある。どの曲もすべてよかった。「Nothing is coming」、「急に石が飛んできて/Rhapsody Falls/罪」あたりが今日は妙に心に残った。贅沢だ。MCはやはりゆるいが。持っていないCD買ってライブももっと行こうと思った。みんなもペリドッツ聴けよな! 

 そしてみなさんお待ちかねのフグンゲと皆川神である。フグンゲは「ペリドッツのMCで客が沸いてた」としょっぱなから不満げである。みみっちいな! 今月のクボノ宵、ゲストがペリドッツで鍵盤が皆川神、おまけに新曲もやるとか期待しかできないじゃねーかとわくわくしていたが、冷静になって考えてみるとペリドッツにびびったクボンゲが飛び道具を用意しまくったというだけなのでは。。。と思ったが忘れることにした。梅雨だから一曲目は「二つの雨」。その後「フクロウの恋」「声」「水槽」「絵本」と久しぶりな曲が多かった。先月は珍しく「うつし絵」をやったのだが、練習不足で散々な出来で悲しかった。今回はどれもまあまあなクオリティ。あと鍵盤が神。どうでもいいが、皆川神って見た目は漫画みたいだが、声かっこいいよな。今回は稲垣潤一の「1969の片想い」をカバーしたのだが、フグンゲ先生、やる前に「歌えるかな?」と訊いて「知らねーよ」と即答されていた。最近鍵盤の皆さんがフグンゲ相手に当たりが強いのはいいことだと思う。「声」で歌詞を間違え、「ばれないように歌ってほしかった」と膨らんでいた。クズである。音程は安定しないが、クズっぷりは盤石である。そしてフグっぽい。カバー曲の登場人物はたぶんクボンゲと同年代なんだろうが、クボンゲが歌うとなんか中高生の歌みたいである。謎である。

 そして新曲は「あいのうた」。表記は知らない。「最近お前らもオレの天才ぶりを疑ってるんじゃないかと思うから、ここらで見返しとく」みたいなことを言い出す。「ちょっと前に作った曲なんだけど。。。ボクには子どもはいないんだけど、最近まわりで結構子どもが生まれたりしてて、、、子どもがいるってどんな感じなのかなって思って作り始めて。。でも「この歌はこのことを言ってる」って決めつけるのはボクは好きじゃないから、そこはあいまいにして、、恋愛ともとれるようにして。。。笑 そんな感じで作ったまま置いてた曲です」と言ってはじめる。サビは「奇跡じゃなくて偶然でも たとえキミが悪い人だったとしても きっとキミが好きさ」みたいな感じだったと思う。クボンゲはクズだし薄情そうなんだけど、でもこういうじつに愛情ぶかい詞を書くんだなあ。まあ書き手とテクストはイコールではないから当たり前なのだが、ふとにじむ情の深さが好きだ。「オレはどうとでも取れるのが好き」と言っていたが、個人的に子どもへの歌という設定が一番ぐっとくるので、親子の歌だと思うことにする。しかし子持ちファンの心わしづかみだな! しっとりしたいい曲だった。

その後もフグンゲは膨らみながら暴言を吐きまくり、Tシャツのタグが後から届いたのでアマゾンで4800円のミシンを買って自分で縫ったという驚愕のエピソードを明かしたりしていた。あいつにそんなめんどくさいことする根気があったのかよ。。。でもその暇あったら練習しろYO! あとクボンゲというあだ名について、不満そうに「最初志村さんからそう呼ばれて、嫌だったんです、なんか馬鹿にされてるみたいで。けど、なんか最近(※たぶん最近ではない)お客さんからも呼ばれるようになって。。。タグもそれをもじってつけてみました。。。もっと自分を肯定していこうと思って。。。」と語っていた。嫌いだったあだ名もあいつがくれたものだから、気づいたら知らないうちに宝物に変わっていたのかもしれない。


  1. 2016/06/20(月) 03:15:14|
  2. 音楽
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

20160124


 今年から博文館の当用日記を使い始めた。日記は三日坊主派である。まあ五日続いたためしもないのだが、いまのところ奇跡的に続いている。これが非常によくできた日記帳なのだ。使い勝手のいいフォーマットというだけではダメだ、大事なのは情報量だ。六曜、旧暦、その日付に過去起こった出来事、短歌なんかが一頁に書き込まれているので、それが見たくてつい日記を手に取るし手に取れば書く。という訳で小生は1月24日がちょうど旧暦の12月15日になるということを知って少し興奮している。

 旧暦というのは太陰暦、つまり月の暦なので毎月15日は必ず満月になる。月の信仰は古い。月はひとつきの間に、死んでよみがえるからである。今でもあちこちの神社の神事だったりは依然としてどこかの15日にやることが多いのではないかと思う。たとえば成人の日も少し前までは1月15日だった。12月15日は一年最後の満月だから、この日におこなわれる神事もやはり多い。たとえば宮崎県の銀鏡(しろみ)神楽は猪の生首を神饌として夜通し三十三番からなる神楽を舞う。かねがね観に行きたいと思っているのだが、なにせ遠い。

 さて、月の信仰に話を戻そう。信仰の核となるのはやはり月が生死を繰り返すことだ。月の信仰は太陽信仰にさかのぼると言われている。日本でいえば、縄文時代にそれは濃密にみてとれる。死と再生を繰り返す月神の涙や唾液や鼻水――つまり体液もやはり同じ力を持つと考えられていた。変若水(をちみず)だ。顔面把手付深鉢形土器という縄文土器がある。壺の縁に、そこを覗き込むように顔がついている。その目や鼻や口からこぼれ落ちた体液がたまっていく。月神をかたどった顔のついた土器、その中には変若水の代わりに酒で満たされていたのではないか――。ネリー・ナウマンはそう論じた。

 12月15日。最後の月が満ちる。死にゆく年はやがて古い皮を脱ぎ捨てて生まれ変わるだろう。月神の持てる霊妙なる水がほんの一粒でも誰かの墓標に注げばいい。



  1. 2016/01/24(日) 10:07:56|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。